シエナの聖ベルナルディノの記念日は5月20日です。ベルナルディノは1380年9月8日にイタリアのマッサ・マリッティマという町に生まれました。幼いころに両親が亡くなったため、ベルナルディノは親戚の家に引き取られて育てられます。最初は生まれた町にとどまりましたが、1391年からはシエナの親戚のもとに移ります。落ち着いた性格で勉学にも優れ、1400年にペストが流行したときには、4カ月にわたって病人の世話にあたりました。
その後、短い期間の隠遁生活を経て、1402年9月8日にフランシスコ会に入ります。当時、フランシスコ会の中では創立者フランシスコの教えに立ち返って、これを徹底して生きようという運動が起きており、ベルナルディノもこの運動に加わりました(この運動を支持したフランシスコ会士を「Observantes」と呼びます)。しかし、シエナにはこの運動を支持する修道院がなかったため、別の修道院に移りました。そして、1403年9月8日に修道誓願を宣立し、翌1404年には司祭に叙階されました。初しめてミサをささげたのも9月8日のことでした。その後、1年間は神学の勉強を続けますが、1405年ごろからベルナルディノの説教活動が始まります。その活動範囲は徐々にシエナ地方全域へと広がっていきました。「Observantes」の運動は、元来、個々の修道者の生き方を刷新しようというものでしたが、ベルナルディノの働きにより、これを支持する修道院の数も飛躍的に増えました。
ところが、1411年にベルナルディノはペストにかかります。そのため、3年間、療養に努めなければなりませんでした。完治してから、ベルナルディノは「Observantes」の運動の責任者の一人として、この運動に加わらないフランシスコ会士との和解・協調にも尽力するようになります。フランシスコ会の中には、ともすれば原理主義的思想に走ってしまう「Observantes」の運動を支持せず、伝統を重んじる人々も多くいたのです。こうしてベルナルディノは、修道会の中での働きと、人々への説教の活動の両方に力を注いでいきます。説教者としての彼の名声は北イタリア全域に広まり、ベルナルディノは多くの町に招かれて説教をしました。しかし、彼の名声が広まると同時に、反対者も増えていきました。彼は、特にイエスのみ名の信心を広めましたが、まさにこの点で「異端」の疑いをもかけられました。1426年には、そのためにローマに召喚されますが、ベルナルディノの説教は教皇を含めローマの人々をも感嘆させました。このことが直接のきかっけとなったのでしょうか。ベルナルディノはその後すぐにシエナの司教に任命されます。しかし、彼が司教の務めを受諾することはありませんでした(その後も、フェッラーラやウルビーノの司教に任命されますが、受諾しませんでした)。ベルナルディノは、1444年5月20日に亡くなるまで、「Observantes」のフランシスコ会の一司祭として生きたのです。
シエナの聖ベルナルディノを特別に祝うミサでは、ルカ福音書9・57-62節が朗読されます。ルカ福音書では、この個所の直前、すなわち9・51でイエスとその一行がガリラヤを出発し、エルサレムに向かう旅に出ます。この旅は、マタイ福音書やマルコ福音書と比べて際立った形で長く描かれています。多くの聖書学者が一致して主張しているように、ルカ福音書はおもに3つの部分に分けることができます。ガリラヤでの宣教活動、ガリラヤからエルサレムまでの旅、エルサレムでの活動の3つです。マタイ福音書やマルコ福音書では、イエスの一行はガリラヤを出発すると比較的短い期間でエルサレムに到着する印象を受けます。しかし、ルカ福音書では、エルサレムに到着するまでずいぶんと長い期間がかかったような印象を受けます。エルサレムまでの旅の中では、イエスの弟子であるとはどういうことかについて教える個所が多く見られます。この個所もその一つです。
イエスは3人の人とやりとりをしています。まず、ある人がイエスに話しかけます(57節)。イエスがそれに答えます(58節)。次に、話しかけるのはイエスです(59節)。これに対して、話しかけられた人が答えています(同)。しかし、その場合も最後に言葉を発するのはイエスです(60節)。最後はまた、イエスに対して別の人のほうが話しかけています(61節)。これに対するイエスの答えでこの個所は結ばれています(62節)。このように、話しかける側と答える側が交互に入れ替わっています。しかし、やりとりの最後は必ずイエスの言葉で閉じられています。最後の答えを述べるのは、人間ではなく、イエスのほうなのです。
やりとりの内容も特徴的です。まずある人が、イエスに従うことを表明します(57節)。わたしたちは、イエスの肯定的な答えを予測します。しかし、イエスの答えは、まるでその人を突き放すかのようです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58節)。この後、イエスは言葉を続けてはいませんが、まるで「だから、あなたはわたしについてくることができないだろう」と言わんばかりです。
2人目の場合、逆の状況が生じます。今度はイエスが「わたしに従いなさい」と招くのです(59節)。しかし、その人は、まず父親を葬りに行かせてもらえるようにイエスに願います(同)。この人はイエスに従うことを拒否しているのではありません。イエスに従いたいのです。ただ、重大な用事があるので、先にそれを済ませてからにしてほしいと言っているのです。しかし、イエスの答えはそれを許しません。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)。
最後は、また別の人がイエスに従うことを表明します。しかし、その前に家族にいとまごいをさせてほしいとの願いを付け加えます(61節)。ちょうど、1人目(従うことの表明)と2人目(その前に用事を果たしたいとの願い)を合わせたような形になっています。しかし、イエスは今度もこれを許しません。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)。
読んでいて感じるのは、ある種の重苦しさです。3人のケースすべてで、イエスの答えは否定的です。相手の要望がスムーズに受け入れられることはありません。枕する所もなく、他の一切のことが許されないのであれば、イエスに従うことはどれほど厳しいことなのだろうか。はたして自分はイエスに従うことができるのだろうか。そのように感じてしまうのです(ここで注意しておきたいのは、結びの言葉にあるように、イエスに従うことと神の国に入ることは同じことであるということです。イエスに従うことなしに神の国に入る可能性は考えられていません)。
しかし、1人目の言葉、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」は、ペトロが最後の晩さんのときにイエスに言った言葉を思い起こさせます。ペトロも、たとえ死ななければならないようなことがあっても、どこへでもイエスについていくことを表明しました。この時点で、たしかにペトロはそう考えていたのでしょう。しかし、人間は弱いものです。実際に自分に災難がふりかかると、無意識のうちに保身に走ってしまいます。ペトロがそうでした。イエスが逮捕され、自分にも危害が及ぶかもしれなくなったとたんに、イエスとのかかわりを否定してしまったのです。しかし、ペトロはイエスから選ばれた弟子の一人です。それどころか、弟子たちの頭です。そのペトロでさえ、このような弱さをさらけ出してしまったのです。しかし、ペトロはそれ以後も弟子としてとどまりました。このことを踏まえると、今回取り上げた個所でのイエスの言葉は、弟子たちの弱さを否定するものではないと言えるでしょう。イエスは、弟子たちの人間としての弱さを知っています。しかし、それでも弟子であることの厳しさをはっきりと述べるのです。
先に述べたことですが、ここで、イエスに従うことと対比されているのは、それ自体、必要なものであり、大切なことなのです。休息にしても、親を葬ることにしても、家族とのかかわりにしても、そうです。しかし、イエスに従うということは、必要なもの、重大なものをすら忘れさせてしまうほど、恵みに満ちたものなのです。ただし、それは頭で理解することではなく、体験として感じ取ることなのです。頭で考えているうちは、イエスに従うことは非常に厳しく、人間には不可能なことに思えるでしょう。しかし、イエスに従うことのすばらしさを知った者にとって、それはどんなに厳しいものであっても、それを超える喜びを与えてくれるものであり、それ以外のものすべてを二次的なものと感じさせてしまうものなのです。逆に、どんなに大切なものであっても、それをイエスよりも優先させるということは、結局のところ、イエスに従うこと、神の国に入ることのすばらしさをまだまだ感じ取れていないということなのでしょう。
聖ベルナルディノも、修道会内での対立、人々の批判、「異端者」としてのレッテルなど、さまざまな苦しみや悩みを体験しました。そして、枕する所がないほどに働き続けました。それでも揺らぐことなくイエスに従い続けることができたのは、やはりイエスに従うことのすばらしさを味わい深めていたからでしょう。
わたしたちの生活の中では、大切なこと、必要不可欠なことがたくさんあります。だから、わたしたちはついついこれらのことをイエスに従うことよりも優先させなければならないと感じてしまうのです。ルカ9・59、61に登場する人と同じようにです。しかし、そのようなときにこそ、イエスに従うことのすばらしさを今一度味わいなおすことができるように、聖ベルナルディノの取り次ぎを願いたいと思います。