復活節第4主日は、ヨハネ福音書10章から取られた福音が朗読されます。A年は1─10節、B年は11─18節、C 年は27─30節です。それぞれの特徴はありますが、イエスが自分を羊飼いにたとえ、羊との関わりを述べている点では共通しています。このため、復活節第4主日は伝統的に「よい牧者(=羊飼い)の主日」と呼ばれています。
ここで述べられているのは、単に飼う者と飼われる者との関係ではなく、深い絆で結ばれた関係です。「羊飼い」は雇われて羊を飼う者と区別されます。羊飼いとは「自分の羊」として羊を所有する者です(10章の中で何度も「自分の羊」「わたしの羊」と繰り返されていることに注意してください)。よい羊飼いであるイエスは、自分の羊のことを心にかけ、羊を導き、羊のために命を捨てます。羊は羊飼いの声を知っており、羊飼いについて行きます。他の人たちにはついていきません。こうして、羊は命を受け、一つの群れになります。
羊飼いイエスとその羊との関係は、次の言葉に凝縮されています。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」(14─15節)。御父とイエスを結び付けている深く生き生きとした絆、それと同じ絆がイエスとそれに従う者の間にあるというのです。
さて、イエスはこの「自分の羊」の群れをペトロにゆだねます。ヨハネ福音書では、21・15─19に記されています。今回は、ペトロの後継者として、イエスの羊の群れ全体を牧する務めを果たして天へと帰っていった故ヨハネ・パウロ2世教皇を追想する意味もこめて、この箇所を読み深めたいと思います。
イエスは、ペトロに「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問いかけます。「この人たち」とは、イエス出現の場にいあわせたトマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、他の二人の弟子たちのことです(2節参照)。
ペトロは牧者、羊飼いとしての務めをゆだねられますが、それはイエスが牧者、羊飼いであるのとは意味が異なります。羊はイエスの羊であり続けるからです(イエスは何度も「わたしの羊」と繰り返しています)。ペトロはイエスの羊を牧しますが、それは羊飼いであるイエスと羊との絆を育み、保ち、より堅固なもの、生き生きとしたものにするためです。
だから、その務めを果たすには真の牧者であるイエスへの愛が必要です。しかも、他の人と比べても劣ることのない深い愛が必要です(「この人たち以上に……」)。イエスが三度にわたって質問を繰り返し、イエスへの愛を確認しているのはそのためでしょう。
ペトロは、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです(知っておられます)」と答えます。単に「わたしはあなたを愛しています」ではなく、「わたしがあなたを愛していることは、あなたは知っておられます」と答えるのです。これは上述の10章と結び付けて考えると、深い意味を持っているように思います。10章で、イエスは羊飼いとして羊をよく知っており、羊も羊飼いのことをよく知っていることを強調しました。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」(10・15)とまで述べたのです。ペトロが「あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることは、あなたはよく知っておられます」(21・17)と言うとき、彼は羊飼いと羊の深い絆に訴えているのです。
ペトロの答えを受けて、イエスはご自分の羊の群れを牧する務めをペトロにゆだねます。「わたしの羊を飼いなさい」。そして、最後に「わたしに従いなさい」と言うのです(19節)。イエスの羊を牧するとは、まず自らがイエスの羊としてイエスに従い、イエスを愛し、命を得ることであると言いたいのでしょう。
さて、このエピソードにはペトロの死についてのイエスの言葉が結び付けられています。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18 節)。ヨハネ福音書は、その意味を説明して「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と記しています(19節)。
イエスの羊の群れを牧するという務めが与えられるエピソードの中で、この言葉が述べられているということに、大きな意味を感じないではいられません。羊の群れを導き、教え励まし、保護し、育てていくことについて、イエスは具体的な指示をしていません。むしろ、「年をとり」「行きたくないところへ連れて行かれる」ことを通してペトロが「神の栄光を現す」ことを強調しています。まるで、イエスの羊を牧することの中心は、精力的に活動することにではなく、イエスのために老いや病気を受け入れ、自分の自由にならないことを受け入れ、羊飼いイエスがそうしたように、羊のために命をささげることにこそあると言っているかのようです。
ヨハネ・パウロ2世の業績について、全世界へ行き、人々の中に入っていったこと、平和への取り組み、諸宗教・キリスト教諸教派との対話、人権の擁護などといった活動面がよく取り上げられます。それもすばらしいことですが、ペトロの後継者として、イエスの羊の群れの牧者として、だれにもましてイエスを愛し抜き、イエスに従い続け、イエスに倣って羊のためにすべてを受け入れ、すべてをささげていったその歩みこそが、ヨハネ・パウロ2世の最大のすばらしさだったのではないかと思います。
私が留学を終え、ローマを去る頃、ヨハネ・パウロ2世の病気はかなり進行していました。今から約10 年くらい前のことです。その頃の聖金曜日の説教で、カンタラメッサ神父が言った言葉は今も私の心に深く刻まれています。「今日は説教は必要ないでしょう。十字架の神秘を体現している生きた証しがここにおられるからです」。もちろん、杖をつきながら、苦しげに儀式を司式しておられたヨハネ・パウロ2世を指した言葉でした。それ以後、まさに年をとり、病に苦しみ、自分の思い通りにならない状態にありながらも、それを受け入れ、羊の群れ全体の牧者としての務めを続けることによって、そして最後には羊のために命をささげることによって、ヨハネ・パウロ2世は最後まで牧者として私たちを導いてくれたのだと思います。この偉大な教皇を与えてくださった神に感謝しながら。そして、神がふさわしい牧者を私たちに与えてくださることを確信しつつ。アーメン。