序)1629年1月12日、雪に覆われた米沢盆地の北山原(ほくさんばら)、糠(ぬかやま)、新藤ケ台(しんどうがだい)の三か所で、53人がキリストの証人として殉教しました。男性30人、女性23人、そのうち5歳以下の幼児が9名。
殉教にあたり、「ここで死ぬ者たちは信仰のために命を捨てる清い人たちである。皆の者土下座するようお願い申す」と刑場に声がこだました。
1 米沢の教会
*1590年、キリシタン大名・蒲生氏郷が会津黒川城に入った時、東北の人たちは初めてキリスト教に出会います。
*1611年、仙台に派遣されたフランシスコ会のルイス・ソテロ神父が米沢に立ち寄り、そこに小さな共同体が生まれています。しかし、米沢教会の成長を見るのは1626年以降からです。
2 教会の成長
*米沢教会はルイス甘糟右衛門と二人の息子ミカエル太右衛門(たえもん)、ビンセンシオ黒金市兵衛(いちびょうえ)を中心に成長しています。甘糟家は代々上杉藩に仕えてきました。当初二百万石から始まった上杉藩は、徳川幕府によって米沢に追われ、十五万石に減封されます。その貧しさは、上下の身分を越えて互いを思い、心を一つにして生きる善良で素朴な米沢の人々を生み出しています。苦しみは人を清め、仕える者にします。福音に出会う前に右衛門の心は耕されていました。
*1612年、右衛門は江戸でソテロ神父から洗礼を受けます。右衛門を中心とする米沢教会は司祭が常駐しない巡回教会で、信徒は「組」の組織によって支えられ、絆を保っていました。イエズス会の指導のもと「聖母の組」「聖体の組」、フランシスコ会のもと「コルドンの組」「セスタ講」がありました。信徒は「組」ごとに定期的に集まり、霊的読書と祈りを土台に、孤児の世話、病人、貧困者の支援を行っていました。「すべてのキリシタンはいずれかの信心の組に入っているのを誇りとしている」と、当時のことが報告されています。
3 殿の談義
*組を世話する組親は求道者を教え、洗礼を授け、聖体を配り、集会祭儀を仕切り、葬儀や結婚式にも立ち会います。宣教師たちは彼らをカテキスタと呼んでいます。組親を束ねる惣親(そうおや)、甘糟右衛門の説教は「殿談義」として有名でした。年に数回巡回する司祭はこの組親と連絡を取ってより高い教義と深い霊性を学ばせ、信徒のためにはゆるしの秘跡とミサを行うだけでした。
*司祭が常駐しない米沢、それでも当時3000人以上のキリシタンがいたと上杉藩の文書には記録されています。司祭と信徒の使命と役割、現代日本の教会が模索する教会のひな型を、殉教時代の米沢に見いだします。
4 殉教への道
*二代目藩主上杉景勝が意地からでもキリシタンを守ろうとしたのは、領民たちにとって教会が不可欠の存在になっていた証拠です。泣く人たちが、教会に居場所を見つけたのです。
*1628、三代目藩主上杉定勝が江戸から戻ったとき米沢藩はキリシタン擁護派と断罪派に二分していました。
「致し方なし」万策尽きたとき、定勝は藩の存続を選び、キリシタンの処刑を決めたのです。「その亡骸(なきがら)は、キリシタンではない人々によって丁寧に取り扱われた」と、ポッロ神父は伝えています。人々に心から愛され、惜しまれた教会がそこにありました。