序)どんな苦難があっても転ばない。困難の中でも希望を持った殉教者。
1 生い立ち
*1587年、ペトロ岐部は国東半島の浦部に生まれます。父はロマノ岐部、母はマリア波多(はた)で、信仰深い家庭に生まれました。13歳の時、有馬のセミナリオに入学。セミナリオ卒業を間近に控え、イエズス会に入会したいと思いましたが、実現しませんでした。その後、同宿として甘木と秋月で働きます。
2 ローマを目指して
*1614年、徳川幕府によるキリスト教禁教令により、岐部は宣教師とともにマカオへ追放されます。追放先で司祭を目指す志をますます固めていました。しかし、日本人学生に対する偏見や経済難を理由に、マカオの司祭養成所は閉鎖へと追い込まれます。また当時の上長たちは、40歳を過ぎないと司祭に叙階しないとの申し合わせを保持し、教会には悶々とした雰囲気が漂っていました。司祭職をあきらめて日本に帰国する人、マニラに新たな道を求める人、ゴアへ向かう人など、実にさまざまな人間模様がうごめいていました。
*日本の教会をとても愛していた岐部は、司祭職への希望をあきらめることができず、1617年頃、マカオを出発してインドのゴアへと向かいます。当時の平均寿命が40数歳だったと言われますので、30歳代での海外渡航はかなり体にこたえたのではないでしょうか。ゴアに着くと、彼を司祭にしないようにとの通達が、日本の上長たちからすでに届いていました。それでもあきらめることができずローマを目指して、パキスタン、イラン、イラク、ヨルダンなどを徒歩で横断しました。ことばも風俗も知らず、砂漠の生活に慣れない一人旅は、どんなに過酷を極めたことでしょう。エルサレムに立ち寄って聖地巡礼をし、彼自身の十字架とキリストとを重ね合わせながら、深い慰めと結城、励ましを与えられたのは確かです。
3 司祭叙階
*1620年5月半ば、ローマにたどり着き、イエズス会本部の扉をたたきます。過酷な旅をもろともせずに歩んできた彼の姿と日本の上長からの評価との隔たりに、ローマの総本部の人たちは驚きます。あつい信仰と勇気が認められ、岐部は1620年11月15日、33歳の時に司祭に叙階されました。その5日後、イエズス会に入会します。その際、彼がラテン語で書いた願書が残っています。そこには「私は自分の召し出しに満足しています」と記されています。さらに「治部自身の救いと同胞の救いのために前進しようという希望を抱いています」とも。「前進する」が彼のキーワードです。
4 帰国の途
*1622年3月12日、ローマでイグナチオとザビエルの列聖式にあずかった岐部は、帰国を希望します。ザビエルの宣教に対する熱意と日本の苦しむ仲間たちを思えば、ローマに留まることは彼にとって忍び難いものでした。帰路はリスボンからマカオ、アユタヤ、マニラに至る航海で、三回の難破。嵐で船が沈むのはとても恐ろしい体験だったことでしょう。物騒で海賊が出るかもしれない。1630年、ルバング島から最後の航海に出発し、台風の影響で小舟がまたもや難破したものの、同胞たちへの熱い思いに支えられながら薩摩の坊津に辿り着きます。リスボンを出発してから、8年の歳月が流れていました。
5 日本での宣教
*16年ぶりに祖国の地を踏んだ岐部は長崎に直行します。しかし、そこには想像を絶する迫害と殉教の波が押し寄せていました。1633年には日本のイエズス会のフェレイラ神父が棄教。同時期に中浦ジュリアンが殉教していきますが、岐部は長崎の山中に潜伏していました。フェレイラが棄教したと聞いて、夜中、山から下りて町に入り、フェレイラに会って次のように励まします。「神父様、一緒に奉行所へ参りましょう。あなたは背教を取り消し、私とともに死にましょう」と。フェレイラは断りましたが、岐部の行動は、兄弟の救いを願う司祭の心情をよく表しています。その後、岐部は東方地方の水沢に活動の拠点を移し、そこで数年間、活動しますが、もはや潜伏は困難であることを悟り、1638年3月、宿主に害が及ばぬよう仙台領水沢で捕らえられました。
6 殉教
*江戸に護送されて取り調べを受けました。これには将軍家光が直々に立ち会ったとも言われています。さまざまな拷問の末、取り調べ奉行の井上筑後守政重(いのうえちくごのかみまさしげ)の命により、穴吊りにされました。それでも信仰を捨てない岐部を見た役人や、真っ赤に焼けた鉄棒を彼の腹に押し付け、絶命させました。1633年7月のことです。享年52歳。岐部の処刑について記した井上筑後守直筆の所見が、今も残っています。
「ペトロ岐部は転び申さず候」。