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これってどんな種?

見ないで信じる者という種 復活節第2主日(ヨハネ20・19〜31)

 きょうの典礼は、「神のいつくしみの主日」と言われています。それは、受難を前に弟子たちがイエス様から逃げて行ったにも関わらず、復活されたイエス様が弟子たちに現れ「あなた方に平和があるように」と言われて、彼らを赦されたことから、イエス様の【いつくしみの愛】に感謝することのようです。改めて、私たちは頂いた洗礼の恵みを感謝することができたらいいですね。

 きょうのみことばは、復活されたイエス様が弟子たちに現れる場面です。この日の朝には、空の墓を見たと言うペトロとヨハネそしてマグダラのマリアの知らせを聞いた弟子たちが、ユダヤ人を恐れて、自分たちがいた場所の戸にはことごとく鍵をかけて集まっていました。彼らは、「復活されたイエス様のこと」、「イエス様が墓にいないということを知ったユダヤ人たちが弟子たちの所に来てイエス様のことについて尋問されるのではないか」といろいろなことを思っていたことでしょう。さらにまだ、彼らの中には、イエス様の受難の場面、メシアだと思ってついて行ったにも関わらず、怖くなって逃げてしまった罪悪感が深く残っていたのではないでしょうか。そんな彼らの心が「戸の鍵をかける」と表しているのかもしれません。

 さて、イエス様はそのような状態の弟子たちの所においでになり、真ん中に立たれ「あなた方に平和があるように」と言われます。この時の弟子たちはどのような気持ちだったでしょう。まず、戸には鍵がかけられ入って来ることができないはずなのに、イエス様が来られたという驚きがあったことでしょう。さらに、自分たちがイエス様を裏切って逃げたにも関わらず、イエス様が「あなた方に平和があるように」と声をかけてくださったという喜びと安心が湧いてきたのではないでしょうか。

 イエス様は、両手と脇腹の傷を見せ、ご自分が十字架に架けられた印を弟子たちに示されます。弟子たちは、マグダラのマリアやペトロやヨハネが言っていたことが本当であったということを改めて信じたのではないでしょうか。みことばにある「主を見て喜んだ」というのは、今までの重くて暗い自分たちの心が癒され、軽くなっていったこと、主を裏切った自分たちを責めるのではなく、赦してくださったことを表していると言ってもいいでしょう。

 イエス様は、さらにもう一度「あなた方に平和があるように」と言われます。ここには、イエス様が何度でも「赦しますよ」というイエス様の「いつくしみの愛」【アガペの愛】という意味があるのかもしれません。イエス様は、私たちの弱さを全てご存知で、また私たちが鍵をかけて心を閉ざしているのにも関わらず、その心に入られて「あなた方に平和があるように」と言ってくださっておられるのです。

 イエス様は、弟子たちに「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」と言われ弟子たちに息を吹きかけられます。この箇所は、ヨハネ福音書の中での【聖霊降臨】と言われているようです。弟子たちは、聖霊をいただいてイエス様から福音を伝えるために派遣の祝福を受けたのです。

 さて、弟子たちはイエス様と出会った時に偶然居合わせていなかったトマスに「わたしたちは主を見た」と伝えます。もう、弟子たちの顔は喜びに満たされていたことでしょう。そんな顔を見たトマスの心は、羨ましいう気持ちとともに、自分が他の弟子たちともにその喜びを共有できなかったことへの悔しさがあったのではないでしょうか。彼は、「わたしはその手に釘の跡を見、……決して信じない」と言ってしまいます。トマスの苦しさがよく表れているのではないでしょうか。

 さて、復活されて8日後再び弟子たちの所に現れたイエス様は、「あなた方に平和」と言われ、トマスに「あなたの指をここにあてて、わたしの手を調べなさい。……信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われます。トマスは、「わたしの主、わたしの神」と言って信仰告白をします。トマスは、やっと他の弟子たちと同じように復活したイエス様に出会うことができ、どんなに心が癒され、喜んだことでしょう。一週間前の言葉がトマスの人間的な言葉とするなら、この言葉は、聖霊に満たされて口から出たのではないでしょうか。トマスは、他の弟子たち共にイエス様から息を吹きかけられていませんが、聖霊はトマスの中にも入っておられたのです。

 イエス様はさらに「見ないで信じる人は幸いである」と言われます。私たちは、どうしても肉体の目に頼ってしまいます。しかし、復活されたイエス様はその【目】で見えるお方ではありません。この言葉は、信じなかったトマスを責める言葉ではなく、またいろいろなものに惑わされないように、もっと心の目を養ってください、という私たちへのメッセージではないでしょうか。

 私たちは、洗礼によって心の【目】でイエス様を【見る】恵みをいただいています。改めて洗礼の恵みに感謝し、復活されたイエス様の【いつくしみの愛】をいただいて、喜びのうちに日々を過ごすことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

  2. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

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