大森での最初の家、王子教会、「カトリック・プレスセンター」、そして朝鮮語による印刷が許可された教会、隣接する小さな印刷所と、一九三四年から一九四〇年までの六年間、私たちの活動は神の恵みによってかなり順調に推移していた。
しかしパウロ神父は聖パウロ修道会固有の土地と、借家ではなく本物の修道院、大きな印刷工場と書店、そしてカトリック・ラジオ放送局の設立を夢見ていた。でも、どうしたらそのための資金を見つけることができるだろう。日本のカトリック者の数はとても少なく、裕福な資産家に献金を願うということは現実的に不可能であった。なぜなら日本社会には、白人はみんなが裕福でないにしても、優雅な暮らしをしているという考えが定着していたからである。
そこでパウロ神父は創立者のアルベリオーネ神父に手紙を書き、聖パウロ修道会の事業を進めるための資金を得るため、ロレンツォ神父をアメリカに派遣する許可を得た。
そこで私(ロレンツォ)は、一九四〇年六月二十九日、日本の客船「龍田丸」に乗って横浜港を出港し、七月十三日アメリカのカリフォルニアに到着した。
太平洋横断は何事ともなく平穏のうちに行われた。しかし、「事を計るは人、事を成すは天」である。翌年の一九四一年十二月七日、アメリカは日本と戦争状態に突入し、日本軍によるハワイの「パールハーバー(真珠湾)」へ奇襲攻撃が行われた、同じ月にイタリアもアメリカに宣戦を布告した。しかし戦争中であっても、私はアメリカでの使徒職を継続した。だが、その成果たるや微々たるもので、募金の額は予想していたよりもはるかに少なかった。その理由は私がまず「日本の支持者」として見られ、次にアメリカと敵対している枢軸国側の人間として見られたのだ。なぜなら私のパスポートは、イタリア国籍だったから。イタリアは枢軸国(ベルリン=ドイツ、ローマ=イタリア、東京=日本)に加盟していたのだ。そこで私はすぐにアメリカ国籍の取得を申請しなければならなかった。これはアメリカの国法に従って、五年後にやっとのこと取得することができた。
さて太平洋を横断する間、興味をそそられるエピソードがあった。それは「週二日の木曜日」のことだった。太平洋のただ中には、便宜的に「日付変更線」が定められている。これによって日本のある日は、アメリカではその前日になるのだ。私たちは木曜日にその「日付変更線」を越えたので、日本で過ごした「木曜日」という日をアメリカでもう一度過ごすことになった。この「日付変更線」を越えるというイベントは、船の甲板で伝統的なお祭りとして祝われ、乗船客たちの間に陽気な「笑いの突風」を巻き起こした。
数年後に、私がアメリカから空路日本に戻った時にも同じことを経験した。私たちはハワイ島のホテルで、数時間休憩をとった。その日は日曜日であった。司祭たちはミサをささげるため、島内にあるカトリック教会を探した。そしてその翌日、東京の羽田空港に着いた時、曜日は月曜日でなく火曜日であった。
アメリカへの旅について話を続けよう。「龍田丸」に乗船してサン・フランシスコに着いた私は、その足でサレジオ修道会が管理している「使徒聖ペトロ・聖パウロ教会」に向かった。主任司祭のコスタンツォ神父は温かく私を迎え、精神的・物質的な援助を与えてくださり、アメリカ人の慣習について概略を教えてくれた。
数日後、私は列車でニューヨークに向かった。この旅行にはたっぷり四日かかり、シカゴでは長時間待たされた。東海岸の列車はここが終点だったので、私は西部鉄道に乗り換えて、ニューヨークまで行った。ニューヨークのスタテン・アイランド島には聖パウロ修道会の会員がすでに土地と修道院、印刷工場を所有していて、神学生もかなりの数がいた。院長のフランチェスコ・サヴェリオ・ボッラノ神父は、私を仲間の司祭たちの一人として温かく迎え入れてくれた。
ここで数カ月間、英語を勉強してから、私はニューヨーク在住のイタリア人家族とイタリア系アメリカ人の主任司祭たちを訪問して寄付を募り、そこで司祭職の職務を遂行した。みんなは私を親切に迎え入れてくれ、あらゆる方法を駆使して極東で苦闘する聖パウロ修道会の仲間に寄付が送れるよう援助してくれた。こうした主日や祝日における司牧活動は、あの恐ろしい世界大戦勃発の時にも、少しも停滞することはなかった。
ニューヨークで私は、多くのイタリア人たちの間に「恩人たちのグループ」というネットワークを作った。日曜日にブロンクスの教会で司牧活動のお手伝いをすることで、一定のお金も受け取っていた。また三カ月の間、W・O・Vのラジオ・イタリア局で話すこともできた。ニューヨークでの私のラジオ番組は録音され、デトロイト(ミシガン)の放送局に送られていた。こうして少しずつ協力者たちは増え、それに伴って会のための寄付金も次第に増えていった。
監修者注
ロレンツォ神父がアメリカに出発した後、世界では重大な出来事が進行していた。一九四〇年九月二十七日に日本は、ドイツの首都ベルリンにおいてドイツおよびイタリアと「鉄の協定」に署名、世界の他の国々に対して枢軸を作った。一九四一年十二月七日、帝国日本海軍司令長官の山本五十六はアメリカに対して、宣戦の布告なしにハワイのホノルル島に集結していたアメリカ艦隊を攻撃し、短時間のうちにパールハーバー(真珠湾)のアメリカの太平洋海空軍に大打撃を与え、アメリカが日本に宣戦布告する原因を作った。
太平洋の海と陸において激烈な戦闘が行われ、最初のうちは全戦線において日本軍が輝かしい勝利を収めたが、一九四五年、アメリカは海と陸での絶対的優位を得るため、国を挙げてすべての工業機械を総動員し、「破城槌」の技術をもって、戦線から数百キロメートル後方にある島々に次々と上陸して、奪回に向けて突進した。十月二十三日から二十五日にかけて、フィリピンのレイテ湾において今次最大の海空戦が行われ、日本軍は挽回不能の大敗北を喫した。一九四五年の四月一日、アメリカのマッカーサー司令官は琉球諸島最大の島である沖縄に上陸。日本は世界最強と謳われた戦艦・大和をその戦いで失った。海軍が壊滅し、空軍は無力となり、日本は狂信的な徹底抗戦の決意を固め、「神風特攻隊」と呼ばれる、飛行機に爆弾を積んで敵艦に体当たりする絶望的な自爆攻撃に走った。アメリカ軍は日本を降伏に追い込むため、東京を始めとする主要都市を無差別に徹底破壊する絨毯爆撃を行った。
しかし、その効果はなかった。一九四五年七月二十六日、日本軍の大本営は降伏勧告を拒否。そこでアメリカ合衆国大統領のトルーマンは、八月六日広島に、同九日長崎に、人類史上初の原子爆弾を投下することを許可した。これによって力尽きた日本は、同年九月一日、無条件降伏に署名した。原子爆弾の使用の是非については種々論議がされており、今後も論議されるだろうが、世界の多くの人が「原爆投下」は無益な残虐行為だったと考えている。いずれにしても、軍隊が解体されたのち、日本はその歴史に新たな1ページをめくったのである。新憲法の施行(一九四七年)後、日本はアメリカと平和条約を締結した(一九五一年)。その後、日本はアメリカと実り多い政治的・経済的に緊密な協力関係を築き、驚くべきスピードで戦後の経済復興を成し遂げ、世界の工業生産と貿易の分野において、一躍上位に飛躍することになった。
アメリカに滞在していたロレンツォ神父は、大戦中は、日本の聖パウロ修道会の会員たちのような「カルワリオ」(受難)を体験しなかった。しかし特に一九四三年九月八日以降、(日本人に言わせれば、イタリアが連合国側に寝返り、「鉄の協定」で堅く結ばれていたはずのドイツと日本を裏切ったので)、日本にいたイタリア人宣教師は、筆舌に尽くし難い多くの苦難を耐え忍ぶことになった。一九四四年八月、イタリアが連合軍に降伏したために日本の聖パウロ修道会共同体に対して、日本政府から一種の「迫害」が加えられた。イタリア人の宣教師はスパイとして監視・尾行された。そして八月二十五日、パウロ神父が逮捕されて留置所に入れられ、続いてパガニーニ神父も逮捕され、留置所に入れられた。カトリック王子教会は日本政府の命令で閉鎖となった。二人の神父は間もなく釈放されたが、アメリカ軍の爆撃がますます激しくなったため、あらゆる教会活動はほとんど不可能になった。
一九四五年五月二十五日、印刷工場はアメリカ空軍のB29の爆撃によって炎上、完全に破壊された。聖パウロ修道会の会員たちは四散を余儀なくされ、生き延びるために方々に避難所を求めた。
万事休す!と誰もが思った。しかし、神のご計画はそうではなかった。事実、「台風」が過ぎ去ると神の恵みによって全ての会員が無事であることが分かった。みんなはすぐに、パリ外国宣教会のフロジャック神父のご好意で借りた「ナザレトの家」と呼ばれる家に集まり、共同生活を再開することができるようになったのである。これら一連の出来事について、王子区における聖パウロ修道会宣教師の一人であったカルロ・ボアノ神父に語ってもらうことにしよう。神父は戦争の悲劇を身をもって体験し、そして生き延び、アメリカ軍の爆撃によって聖パウロ修道会の全事業が完膚なきまでに破壊された際の「生き証人」なのである。ボアノ神父は次章において、戦時中に起きた主要な出来事を要約して書き記している。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年