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月刊澤田神父

「月刊 澤田神父」2022年4月号(ヨハネ福音書によるイエス・キリストの受難)

聖金曜日・主の受難の典礼とヨハネ福音書

 今月は、わたしたちの信仰の中心であり、典礼の頂点でもある、主イエス・キリストの過越の神秘が祝われます。受難の主日(枝の主日)には典礼暦年に合わせてマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書による主イエス・キリストの受難の朗読がなされます。一方で、聖金曜日の主の受難の典礼の中ではヨハネ福音書による主イエス・キリストの受難の朗読がなされます。

 ヨハネ福音書はイエス・キリストの受難の物語を記しています。しかし、現実に起きた出来事を書きながら、この現実をとおして神が何をなしとげようとなさったのかをも読者に伝えようとします。

 典型的なのは、イエスの「逮捕」の場面です(ヨハネ18・1-11)。現実に起きたことは、イスカリオテのユダの裏切りによってイエスが逮捕され、連行され、この後、裁判にかけられ、十字架刑に処せられて殺されていくということです。人間的に考えれば悲惨な出来事です。

 しかし、ヨハネ福音書は不思議な描き方をします。人々がイエスを捕らえに来たときに、最初に言葉を発するのはイエスの側です。「誰を捜しているのか」(18・5)。すると、捕らえに来た人々は言います。「ナザレのイエスだ」(同)。すると、イエスがお答えになります。「わたしである」(同)。現実にこういう状況があり得るのでしょうか。皆さん、犯罪捜査などの場面でこういう状況が起きたと考えて想像してみてください。通常であれば、逮捕に来た側が尋問するのであって、逮捕される側から率先して「誰を逮捕するために来たのですか」と質問することはありません。いや、「わたしです」と答えることもしないでしょう。ヨハネ福音書の描き方は、この時点ですでにおかしいのです。

 しかも、ヨハネ福音書は、イエスが「わたしである」と仰せになったのを聞いたとき、イエスを捕らえに来た人々は「後ずさりして、地に倒れた」(18・6)と記します。何が起きたのでしょうか。日本語訳を読むだけでは、彼らが驚いて後ずさりし、何かにつまずいて地面に仰向けに倒れたと理解する人もおられることでしょう。しかし、これは「うつ伏せに倒れ伏す」という意味の動詞です。イエスを捕らえに来た人たちが後ずさりしてイエスに向かって前に伏したという意味にしかとることができないのです。しかも、この「倒れる」という動詞は、神への礼拝のために「地にひれ伏す」ことを示すときに使われるものです。

 そして、ヨハネ福音書はこのやりとりをあえてもう一度記します(18・6-8)。また、イエスの言葉、「わたしである」とはギリシア語原文では「エゴ・エイミ」、つまり神がご自分の名としてモーセに示した「わたしはある」、そしてヨハネ福音書がこれまで何度も繰り返してきたイエスの神秘を示す表現でもあります。

 現実を描写する物語は「イエスの逮捕」を描いています。しかし、ヨハネ福音書はその中で、この「現実」をとおして神がおこなっておられることを示そうとします。捕らえに来た人々が尋問するのではなく、イエスこそがイニシアチブを取られる方であること。イエスは、「わたしはある」という者であられるということ。それを聞いた人々は、後ずさりして「ひれ伏した」ということ。そこから読者が何を読み取るかをヨハネ福音書は問いかけているのでしょう。

 わたしたちが生きる「現実」は必ずしもすばらしいことばかりではありません。しかし、その「現実」を信仰の目で、神のまなざしのもとにどう受け取めて生きていくのかを、ヨハネ福音書はわたしたちに問いかけているのだろうと思います。

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澤田豊成神父

聖パウロ修道会司祭。1965年、東京都目黒区生まれ。1996年、司祭叙階。教皇庁立グレゴリアン大学神学科修士課程で聖書神学を専攻、神学修士号取得。現在は編集をとおしての宣教に従事。東京カトリック神学院、聖アントニオ神学院講師。

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