以前、ある人から「ブラザーはイエス様の声を聞いたことがありますか。」と質問されたことがありあます。私は、「ありますが、それは私たちが耳で聞くような声ではなくどちらかというと感じると言った方がいいかもしれません」と答えました。イエス様の声は、「良心の声」に近いような気がして、その【声】を心の中で識別しながら聞く習慣をつけていくことがいいのかもしれません。
きょうのみことばは、イエス様が葬られた空の墓に、マグダラのマリア(たち)とペトロとイエス様が愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)が行く場面です。イエス様が十字架にかけられて亡くなられた後の弟子たちは、自分たちがメシアだと思い、師としてついて行ったイエス様が死んでしまった、という言いようもない喪失感に襲われていたことでしょう。彼らは、イエス様が以前「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから殺され、3日目に復活する」(ルカ9・21)と言われたことを理解できていなかったでしょうし、認めたくなかったことでしょう。特に、【3日目に復活する】ということを理解できなかったのです。
そんな中、ようやく安息日が明けた週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリア(たち)はイエス様が葬られた墓に行きます。ヨハネ福音書では彼女の名前だけしか出ていませんが、彼女が弟子たちに知らせた時に「わたしたちにはわかりません」(ヨハネ20・3)と言ったように複数の女性がいたようです。マルコ福音書には「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメは香料を買った。それは、イエスに油を塗りに行くためであった。」(マルコ16・1)とありますように3人の女性がいて、それぞれイエス様と出会い何らかの影響を受けたのでしょう。
彼女たちはイエス様が葬られた墓に行き、墓から石が取り除かれているのを見て、急いでペトロとヨハネの所に走っていき、「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのかわたしたちにはわかりません」と伝えます。彼女たちは、何がなんだか分からなくなり、直感的に「イエス様が取り去られた」と思ったのでしょう。彼女たちは、イエス様に香油を塗るために墓へ行ったのに、今までの喪失感だけではなく、大変なことが起こった、誰がイエス様を取り去ったのだろうかと不安や恐怖心に襲われたことでしょう。
マグダラのマリアは、息を切らしながら、真っ青な顔になって弟子たちに知らせたのかもしれません。彼女たちの知らせを聞いた2人の弟子たちは、走って墓に向かいますが、ヨハネの方が先に墓に着きのぞき込み、平になっている亜麻布を見ます。彼が見たのは、ただ漠然と平らになった亜麻布を【見た】だけでした。それは、マグダラのマリアや他の女性たちが「墓から石が取り除かれているのを見た」という【見た】と同じ【見る】という私たちが普通に目に映るのを見ている状態でした。
次にペトロが墓に着き、墓に入っていきます。みことばには、「墓の中に入ってよく見ると、亜麻布が平らになっており、イエスの頭を包んでいた布切れが、亜麻布と一緒になっておらず、元の所に巻いたままになっていた」とあります。今度はペトロが墓の中に入って、平らになった亜麻布、そして頭を包んだ布切れを【よく見】ます。この【見る】というのは、観察するように【注視する】というような見方です。ヨハネやマグダラのマリアたちが【見た】という【見る】と少し違っていて頭を使って原因を究明するような【見方】と言っていいでしょう。しかし、ペトロの見方では、イエス様が復活したと理解できたとは言えませんし、誰が取り去ったのだろうという疑問だけが残ったのではないでしょうか。ただ、謎が深まって行っただけなのです。
続いてヨハネが墓に入り、見て信じます。彼が最初に墓についてのぞき込んで見た時と、墓の中に入って「【見て】、信じた」というのは、かなり違い、この【見る】というのは、心の目で【見る】ということのようです。ヨハネは、イエス様を感じ取る何かを持っていたのでしょう。例えば、彼らがガリラヤ湖で漁をした時に最初にイエス様に気づいてペトロに「主だ」(ヨハネ21・7)と言ったのもヨハネでした。ヨハネは、「平らになった亜麻布と巻かれた状態になった頭を包んだ布」を見てイエス様が復活されたことを悟ったのではないでしょうか。
「百聞は一見に如かず」という諺がありますが、弟子たちは、イエス様が何度もご自分がどのような死に方をするか、そして「3日目に【復活】する」と言われていたのに理解することができず、心の目で見ることでようやく「イエス様が復活された」ということが分かったのです。
復活したイエス様は、亜麻布や頭を包んだ布や鍵をかけた戸でさえも通り抜けられるのです。イエス様は、時間や空間をも関係なく来てくださるのです。復活されたイエス様は、同じように私たちの側にも現れ、言葉をかけてくださっているのです。私たちは、ヨハネが「見て、信じた」ように心を澄まし、心の目でイエス様を見て、感じることができたらいいですね。