聖書の「フランシスコ会聖書研究所訳」と「新共同訳」の訳文の違い
第6回 空の墓でイエスの頭を包んでいた布切れの状態は?(ヨハネ20・7)
ヨハネ福音書による復活の日の空の墓での描写
復活の主日の日中のミサの福音では、ヨハネ福音書20・1-9が朗読されます。イエスが埋葬された墓での出来事です。ヨハネ福音書の記述によれば、「週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行き、墓から石が取り除かれているのを見」(20・1)ました。「そこで、シモン・ペトロの所と、イエスが愛しておられたもう一人の弟子の所へ走ってい」(20・2)きました。マグダラのマリアの話を聞いた2人の弟子は墓に向かいました。
先に着いたのは「もう一人の弟子」でしたが、墓の中に入ったのはペトロが先でした。その時の状況を新共同訳とフランシスコ会聖書研究所訳は次のように訳しています(20・7)。
新共同訳:「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」。
フランシスコ会聖書研究所訳:「イエスの頭を包んでいた布切れが、亜麻布と一緒に平らにはなっておらず、元の所に巻いたままになっていた」。
どちらの訳も「イエスの頭を包んでいた覆い/布切れ」と「亜麻布」に言及していますが、「覆い/布切れ」の置かれていた「場所」や状態については異なる訳をしています。
これについて、フランシスコ会聖書研究所訳では脚注で、通常は新共同訳のように訳出されることを認めたうえで、次のように説明しています。
通常の「訳では、なぜ『もう一人の弟子』がこれを『見て(イエスの復活を)、信じた』(8節)かは理解し難い。ギリシア語句の微妙な意味をくんだ本訳(=上記のフランシスコ会聖書研究所訳)からは、その弟子が埋葬用の布の状態を見て、イエスが亜麻布と手ぬぐい(=布切れ)を抜け出る自由な復活体となったことを悟ったものと推察できる」。「『亜麻布』は、恐らく長い一枚の布で、頭の所で半分に折り、遺体を包んだものであろう」。「『頭を包んでいた布切れ』は、ヨハネ11・44でラザロの蘇りの場合に『頭の周りは手ぬぐいで包まれていた』と記されているように、死に際して自然に開く顎を閉めておくためのものであった。その布が元の所にイエスの頭を縛った輪の形のまま、平らになった亜麻布の中に残されていた」。
つまり、フランシスコ会聖書研究所訳は、この訳文のほうが布切れも亜麻布も元の状態で残されたまま、イエスがそこから抜け出て復活なさったことを説明できると判断しているのです。ある意味で、わたしたちが「復活」をどのように理解するのかにかかわる訳文です。イエスは「布切れとともに起き上がった」のか、復活体として「布切れをすり抜けた」のか。フランシスコ会聖書研究所訳はこれに関連して、脚注で以下の点も指摘しています。ヨハネ福音書はこの後に記すイエスの弟子たちへの出現の場面で、「戸にも鍵がかかっていたにもかかわらず、イエスがそれを通り抜けて家の中に入ってきた、と繰り返し述べ」ていて、この「著者の意図的とも思われる強調」からも上記の訳が裏づけられる、と。
いずれにしても、フランシスコ会聖書研究所訳が脚注を記すことによって、なぜこのような訳文にしたのかを説明しているのは、読者が新たな視点に気づき、聖書を味わい直すうえで意義深いことです。