1 青年時代
*ディエゴは1574年、四国の阿波国(現在の徳島)に生まれます。祖父は足利将軍の弟にあたり、身分の高い家系でした。少年ディエゴは、高槻のセミナリオに入学。1587年には禁教令のため、有馬の八良尾(はちらお)にあるセミナリオに逃れ、1595年、天草でイエズス会のセミナリオに入り、河内浦(天草)のコレジオで学び、1601年から3年間、ジュリアン中浦と共にマカオに留学します。ラテン語の手紙が二通残っているが、非常にきれいなラテン語と言われる。ラテン語を自由に、またきれいに書ける人で、高い教養を身につけ、目上に対しても、迫害者に対しても礼儀正しい人でした。
2 海外で
*彼がマカオで生活している時、宣教師たちの間で意見が分かれます。迫害が厳しくなった日本の状況において、外国人の宣教師を再度日本へ派遣するか否か、また成績が優秀な神学生をマカオに温存して教育するか否か。ディエゴは教育者でしたので、マカオでの分裂、またマカオで十分な神学生の養成ができないことを考慮して、神学生をマカオからマニラへ移し、マニラで日本人学校みたいな養成所を設立してほしいとローマの総長に頼んでいます。彼は長上に何を頼んだらよいか、自分はどういう立場に置かれているかをよくわきまえていました。ただ長上から言われたことを実行するのではなく、日本人の立場として言わなければならないことをはっきりと述べていました。
*マカオに司教がいないこともあり、フランシスコ会のチンジョン神父とイエズス会の管区長だったカリワリオ神父の間に、司教総代理をめぐって衝突が生じ、教区内でもめてしまいます。このもめごとは「日本人神学生の養成の問題」に拡大し、マカオで反日感情が強まっていきます。実際に問題を起こしたのは二つの修道会のメンバーでしたが…。
*1601年、1602年に日本人司祭が誕生しますが、それ以後、マカオでは10年、20年たっても日本人は司祭に叙階してもらえない事態になります。カリワリオ神父の時代には、司祭叙階には40歳を超えていること、この程度の勉強をしなければと条件がつき、いくら勉強しても日本人は司祭にしてもらえませんでした。今で言えば、差別的な環境でした。
*ディエゴはそのことを見抜き、日本では司祭叙階ができないこと、さらにマカオは分裂している状況から、マニラで学ぶことができるようにと願い出ました。日本語で勉強させれば、日本に戻った時にすぐに宣教活動がしやすいと建設的な提案を出しました。
3 司祭叙階
*1607年、伏見の教会に任命され、その後徳島へ移動して蜂須賀(はちすが)家政と足利義種の前で宣教します。
*1612年、司祭叙階のために有馬に呼ばれ、セミナリオで教えながら神学を勉強し、1614年に全国に発令されたキリシタン禁教令に伴い、高山右近とともにマニラに追放されました。1615年、マニラで司祭に叙階されます。イエズス会の管区長はディエゴのことを次のように記しています。「ディエゴ神父、日本人、実直、仕事熱心で日本人の間で効果をあげ、感化を与えた。数日前に日本に帰国」。
4 日本での宣教
*1616年、密かに長崎に戻り、ミカエル草庵とともに京都に派遣されました。京都、大坂を拠点に、毎年のように五畿内、四国、江戸、また遠くは津軽まで追放されていた信者たちを訪問しました。
*1619年10月6日に起こった京都の大殉教の時には、ベント・フェルナンデス神父やミカエル草庵とともに信者を支え、殉教者たちの遺体を埋葬しました。とても厳しい状況にある京都であちこち移動しながら宣教します。
*1633年、ベント神父も捕らえられ、長崎の西坂で生涯を終えました。最後、畿内の司祭はディエゴ神父一人となります。それでも彼は衰えることなく、熱心に宣教活動を行います。困っている家庭があれば、命がけでそこを訪れて励ます司牧者。
5 殉教
*1636年、四国の山中で捕らえられ、大坂へ護送されました。処刑立会人の証言によれば、「結城神父は取り調べのとき、自分には宿主もなく、山野から採ったもので飢えをしのいできたと、衰えてはいても毅然として話す彼を見て、役人たちは結城神父を信じた。したがって、だれにも迷惑をかけずに一人で処刑された」と。
*1636年2月25日、穴吊りの刑で生涯を閉じた。62歳。同宿のミカエル草庵も彼の傍らで生涯を閉じています。