受難の主日(枝の主日)には、日本ではソテツの枝がよく使われます。ルカ福音書では「人々は自分の服を道に敷く」(19・36)とあり、枝については触れていません。マタイ福音書では「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」(21・8)。マルコ福音書では「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11・8)。ヨハネ福音書では「大勢の群衆は、……なつめやしの枝を持って迎えに出た」(12・12~13)。「木の枝」「葉の付いた枝」「なつめやしの枝」は出てきても、ソテツ、シュロ、オリーブの名は出てきません。
聖週間中、南シチリアのアグリジェントにある無原罪の聖母教会の手伝いをしたことがあります。受難の主日(枝の主日)の日のことです。多くの市民が、町の中心にある広場に教会ごとに参集。聖霊教会、聖アルフォンソ教会、聖ヨセフ教会、カテドラル、無原罪の聖母教会など。みんなオリーブの枝を手に振りかざしています。大半の方が、この広場に来る途中、家の軒先にあるオリーブの枝を折ってきたように思われます。まさに日常生活になじんだ枝です。だいたい集まったところで、司教様の挨拶で式が始まり、枝を祝福する時になると、オリーブの枝を差し出してうやうやしい仕草。その後、教会ごとに出発。無原罪の聖母教会の信徒たちも出発し、広場から教会までゆっくり行列して10分ほどの道のり。教会に着いてからは通常通りミサが続き、受難の朗読。地域の特性を生かした、枝の行列はとても印象に残りました。
毎年、枝の行列を行い、受難の朗読を聞きますが、それと並行して読書課の第二朗読(クレタの聖アンデレ司教は説教)はとても心に響きます。「オリーブの枝やじゅうたんや衣服やしゅろを道に敷くのではなく、最善をつくして、心の謙遜と正しい意向とをもって私たち自身を主の足元に広げましょう。」