私たち宣教師の一日は、全面的に王子教会の種々の活動に当てられていたが、パウロ神父は私たちの「特別な使徒職」のことを決して忘れたわけではなかった。彼はよく、こう言っていた。
「ここでは万事が順調だよ。しかし私たちはいつプリモ・マエストロ(創立者)に、『やっと私たちは、出版というパウロ会固有の使徒職を始めました』というすばらしい知らせを送ることができるだろう? 私たちが今、カトリック・プレスセンターでしているわずかの仕事では全然足りない、足りない……」。
しかし、ついに神の恵みで良い機会が訪れた。ある日、朝鮮で活動していたヨーロッパ人の宣教師が王子教会を訪ねてきた。パウロ神父とその熱心な宣教師との対話は、数時間も続いた。彼は言った。
「あなた方が『良書の出版』を使徒職とする宣教師なら、その特別な分野に全力投球をすべきですよ。私は朝鮮で、朝鮮語による『教会報』を月刊で印刷したいと思っているのですよ」。
パウロ神父は答えた。
「分かりました。一日だけ時間をください。そうすれば、きっと良い返事ができると思います。神が私たちをお助けくださるように!」。
お客さんが帰ると、パウロ神父ははじかれたように飛び上がり、タクシーを拾って急いで大司教館に向かった。
「大司教様、心から大きな恵みをお願い致します。大司教様はたいへんご親切なお方ですから」。
「何か変わったことでも?」。
「私のところに、朝鮮から一人の宣教師が来ました。彼は朝鮮語で月刊誌を印刷したいと言っています」。
「分かりました。朝鮮語で印刷する許可を与えます」。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます!それと少しばかり、日本人のための仕事をしてもよろしいでしょうか。例えば便箋や封筒の印刷などといった……。小教区の出費を抑えるためにも役立つと思いますので」。
大司教は立ち上がって、ただ、「さようなら」とだけ言われた。
私はパウロ神父がとてもうれしそうに教会に戻ってきたので、すべてを理解した。今まで、これほどうれしそうなパウロ神父を私は見たことがなかった!
しかしそれは、至極もっともなことだったのだ。パウロ神父はイタリアで一時期、書籍や雑誌の執筆、そして印刷に明け暮れる日々を過ごしてきたのだ。その召命を継続し、ますます発展させるためにこそ彼は、はるばる「日本の都・東京」まで来たのだから。しかし、「良書の出版」というパウロ会の特別な使徒職に全身全霊をささげるまでには、それから五年の歳月を要したのである。
パウロ神父は、イタリアの創立者(アルベリオーネ神父)も、その計画を実現するにあたって、あまたの試練、数多くの困難を乗り越えるために時を要したことを知っていたので、たとえ自分の夢の実現に焦る気持ちがあったとしても、じっと忍耐していたのである。
大司教との話し合いの後でパウロ神父はすぐに創立者に手紙を書き、この大ニュースを急いで航空便で知らせた。また創立者自らが東京大司教に宛てて、今回受けた恵みについて感謝の手紙を出してくれるようにと頼んだ。
一週間もたたないうちに王子に小さな倉庫が建てられ、最初の印刷機と活字ケースが運び込まれた。パウロ神父はさらに新品の手動校正機などの必要な備品を購入した。こうして本当に、私たち聖パウロ修道会の会員の特別な役務が始まった。
新しい仕事は日常生活に変化をもたらした。助任司祭である私は、教会の司牧活動により多くの時間を割かなければならなくなり、一方、パガニーニ神父はその大部分の時間を、植字と印刷に当てなければならなくなった。私たちはパガニーニ神父が、彼本来のなすべき仕事を果たしているのを喜び、それに満足しているのを見ていた。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年