復活徹夜祭は、典礼暦の頂点に位置するものです。この夜、教会は十字架上で死に、葬られたキリストが復活するのを、徹夜で祝うのです。「復活の賛歌」で歌われるとおり、「この夜、キリストは死のかせを打ち砕き、勝利の王として、死の国から立ち上がられ」ました。「この夜、キリストを信じる全世界の人々は、罪の暗やみから解放されて、救いの恵みを受け、聖霊の交わりに加えられる」のです。
復活徹夜祭は、4つの部分から成っています。「光の祭儀」、「ことばの典礼」、「洗礼と堅信」、「感謝の典礼」です。「光の祭儀」の中心は、「光」、「火」です。この光は、新しい光、永遠の光である復活のキリストを表します。教会堂の外の暗やみの中で新しい火が祝福され、この火が復活のろうそくに灯されます。そして、一同はこの新しい光キリストを先頭に教会堂の中へと行列し、「キリストの光。神に感謝」とほめたたえながら、この光をそれぞれのろうそくに灯します。「光の祭儀」は、「復活の賛歌」をもって結ばれます。一年に一度しか歌われないこの賛歌は、救いの歴史とあがないの神秘を凝縮したすばらしいものです。個人的には、ラテン語原文の「Felix culpa! Felix culpa! Felix culpa!」と繰り返す部分にいちばん驚かされます。直訳すると、「幸いなる罪、幸いなる罪、幸いなる罪」です。本来であれば、罪は避けるべきものです。しかし、それを「幸い」と歌うのです。人が罪を犯したからこそ、神のあわれみはさらに豊かに人間に注がれ、ついには神の子イエス・キリストの死と復活まで生み出したからです。こうして、人は、創造のときに与えられた恵みをはるかにしのぐ豊かな恵みで満たされるようになりました。このあまりに深い神秘を、「復活の賛歌」は逆説的に「幸いなる罪よ」と歌うのです。ちなみに、この部分の日本語の賛歌は、「アダムの罪、キリストの死によってあがなわれた罪。栄光の救い主をもたらしたこの神秘よ」と歌います。原文のように直接的ではありませんが、「栄光の救い主をもたらしたこの神秘(=罪)よ」という表現で、同じ神秘を表現しようとしています。
その後、「ことばの典礼」に入ります。通常の主日のミサでは、朗読は3つです(ほとんどの場合、旧約から1つ、新約から1つ、福音書から1つ)が、復活徹夜祭では、旧約から7つ、新約から1つ、福音書から1つの合計9つの朗読がなされます。これは、イエスの死と復活に至る救いの歴史を、教会が徹夜で朗読しながら復活の主日を迎えていたという伝統に根ざしています。現在では、旧約聖書の中から、神のあわれみの歴史をよく表す7つの朗読が選ばれ、復活徹夜祭で読まれます。天地の創造とその頂点である人間の創造、アブラハムが息子イサクをささげようとする場面、イスラエルの民が葦の海を渡った場面、そして平和の実現と新しい契約について述べる4つの預言です。司牧的理由により、7つの朗読からいくつかを選んで読むことも許されていますが、その場合でも、朗読されなかった個所をそれぞれの家に帰って読むことを、お勧めします。神が、旧約の歴史全体をとおして、どれほどの愛と恵みをもって、人々を導かれたのか、キリストの死と復活の恵みをどのように準備されたのかを味わっていただきたいのです。わたしたちキリスト者は、その恵みにあずかっているのですから。新約からの朗読は、使徒パウロのローマの教会への手紙6・3-11です。これについては、後で取り上げることにします。福音朗読は、復活の日の朝の出来事を記す共観福音書(マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書)のいずれかが読まれます。
「ことばの典礼」が終わると、「洗礼と堅信」の祭儀に入ります。教会は、キリストの復活を祝うこの夜を、洗礼の秘跡をおこなうのに最もふさわしいときと理解してきました。洗礼を受ける人は、このキリストの復活の神秘にあずかって、新しい者とされるからです。しかし、たとえある教会の中で洗礼を受ける人がいなくても、ここで洗礼の約束の更新がおこなわれます。すでにキリスト者とされた人たちも、洗礼をとおして自分がどのような恵みを受け、どのようなものとされたのかを、この聖なる夜にあらためて味わい、神に感謝するためです。
この後、「感謝の典礼」に入ります。「感謝の典礼」は、通常のミサと同じです。しかし、ここでもすべてのミサがキリストの死と復活を記念するものであることを思い起こすことが大切でしょう。わたしたちは、ミサの中心である奉献文の中で、この信仰の神秘を高らかに歌います。「信仰の神秘。主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」。
さて、今回は復活徹夜祭の朗読の中から、使徒パウロのローマの教会への手紙6・3-11を取り上げることにします。
一般的に言って、パウロは、キリストの死と復活に集中していきます。受肉の神秘や公生活については、ほとんど触れることがありません。その理由を明確にすることは難しいのですが、いくつかの理由が考えられます。一つは、パウロが生前のイエスとかかわらなかったからでしょう。しかし、おもな理由は、まさにこの死と復活がパウロにとって中心的な問題だったからだと思われます。
キリストに出会う前のパウロにとって、律法の規定にしたがって死罪に定められたイエスは、神から呪われた者でした。まして、「木にかけられた者は皆呪われている」はずでした(ガラテヤ3・13、申命記21・23の引用)。ところが、復活はいのちの与え手である神によってしか実現しません。神から呪われた者が、同じ神によって復活させられるはずはないので、キリストの復活はありえないことだったのです。
ところが、このキリストが今やパウロに現れてくださいました。だから、パウロは、キリストが神によって復活させられたことを、もはや否定することができません。しかし、それならばキリストの十字架上の死は、神の呪いではなく、神の救いの計画において意味あるもののはずです。こうして、パウロは、キリストの死がわたしたちに対する神の愛の現れであり(ローマ5・8)、わたしたちの罪を償うためのあがないのいけにえである(3・25、4・25)と理解していくのです。
パウロにとって、洗礼の秘跡を受けるとは、このキリストと一つに結ばれることです(6・3)。したがって、洗礼を受けた人は、キリストの死にも結ばれます(3-4節)。しかし、「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれた」(10節)のですから、キリストの死に結ばれた人は、「罪から解放されています」(7節)。洗礼を受けた人は、キリストと共に罪に死ぬことによって、「罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならない」(6節)のです。
それだけではありません。「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもな」(8節)ります。「死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがな」く、「死は、もはやキリストを支配しません」(9節)。だから、洗礼を受けて、キリストの復活にあずかり、「新しい命に生きる」(4節)ようになった人も、もはや死ぬことがなく、永遠に生きるのです。
洗礼を受けるとは、あがないの力と永遠のいのちをもたらすキリストの死と復活に結ばれ、今やキリストがその人のうちに生きて、すべての力を輝かせてくださり、その人もキリストのうちに永遠のいのちを生きるということなのです。ここで、もう一度、奉献文の中の「信仰の神秘」の式文を思い起こしましょう。「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」。わたしたちは、キリストの死と復活にあずかった者です。だから、遠い過去に実現したキリストの死と復活を宣言するのではなく、わたしたちの中で今まさにその実りをもたらしているキリストの死と復活を宣言するのです。わたしたちの中で、その死と復活の力を輝かせてくださる生きた方、キリストを宣言するのです。
最後になりますが、「聖なる過越の三日間」にふさわしい本を一冊紹介しておきましょう。『エゲリア巡礼記』(太田強正訳、サンパウロ)という本です。これは、おそらく西暦400年ごろ、エゲリア(あるいはエテリア)という名の女性が巡礼をおこなったときの記録で、その中にエルサレムにおけるこの時期の典礼の模様が記されています。コンスタンティヌス皇帝によって、キリスト教の自由が認められ、エルサレムにキリストの死と復活を記念する教会堂が建てられて間もなくの記録であり、典礼を学ぶうえで第一級の資料です。エゲリアとともに当時の聖地エルサレムの熱気を感じながら、信仰を深めてみてはいかがでしょうか。