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そよかぜカレンダー

ご存知ですか? 今日は聖金曜日、主の受難です

 今年もいよいよ典礼暦の中心、聖なる過越の三日間を過ごしています。聖なる過越の三日間とは、聖木曜日の主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までのことを言い、イエス・キリストの過越の神秘を祝う期間です。

 この時期を迎えるたびに私が思うことは、はたして自分は主の受難と死を本当に救いとして受けとめているのだろうか、ということです。表面的に見れば、それは力があると思われていたある人物が捕らえられ、裁判(と呼ぶには名ばかりのものですが)を受け、十字架刑に処せられて死んでいくという一連の出来事です。端的に受けとめれば、それは成功をつかみかけていた者が、一瞬にしてたたき落とされたということとしか見えません。それは、究極の失敗であるように思えます。とても私たちの救いであるとは思えません。

 この疑問を解決していく上でのヒントを、聖金曜日に読まれるヨハネによる主の受難の記述が与えてくれるのではないかと思います。

 ヨハネは、上記の一連の出来事を明らかに異なる視点から描こうとしています。もっと厳密に言うと、一連の出来事を描きながら、実はそれがイエス・キリストの勝利と支配を現していることを理解させようとする記述になっているのです。

 ヨハネによる受難の朗読は、「イエスの逮捕」の場面から始まります。しかし、よく読んでみると、尋問しているのは、イエスを捕らえに来た人たちではなく、イエスのほうです。イエスが、まず「だれを捜しているのか」と尋ね、捕らえに来た人たちがそれに答えるのです。しかも二度にわたってです(18・4、 7)。しかも、イエスが「わたしである」と言うと、捕らえに来た人たちは「後ずさりして、地に倒れ」ます(18・6)。この「地に倒れる」という語は、「伏す」「ひれ伏す」という意味の単語で、礼拝や崇拝に用いられる用語です。出来事としては「イエスの逮捕」ですが、その記述はこれが「イエスが主であることの顕現」であることを示唆しています。

 「ローマ総督ピラトによるイエスの裁判」にしても、同じような描写が見られます。表面的には、ピラトがイエスを尋問していますが、実際にはイエスがピラトに対して、ご自分が王であることを告げ(18・36〜37)、また神から与えられていなければイエスに対して何の権限もないことを教えます(19・ 11)。つまり、イエスこそが裁く権限を神から与えられていることを示唆しているのです。圧巻は、19・13です。「ピラトは……イエスを外に連れ出し、……裁判の席に着かせた」とあります。この「裁判の席に着かせた」の解釈は一致していないのですが、その後にピラトが「見よ、あなたたちの王だ」と紹介/宣言していることや、前後の文脈から考えると、「裁判の席」=「裁く者/裁判官の席」に着かせたと理解するのが自然であるように思えます。つまり、一連の出来事としては、イエスが裁かれ、死刑の判決を受けるのですが、実は裁いているのはイエスであるということなのです。

 同じことが、イエスが十字架に架けられる場面でも見られます。イエスは十字架を背負わされた(受け身)のではなく、「自ら十字架を背負」ったと記されていますし(19・17)、また単に「イエスを十字架につけた」と述べるだけでなく、ほかの二人をも「イエスを真ん中にして」両側に十字架につけたことを付け加えています(19・18)。ここでもイエスが中心におられることが示唆されているのです。また、罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と、再び「王」であることが明記されていますし、祭司長たちの抗議があってもそれはくつがえらなかったことが、あえて記されています。しかも、罪状書きはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれ、普遍的意味合いを持っていることが示唆されています(19・19〜22)。

 また、兵士たちがイエスの服を分け合い、くじを引いた出来事(19・23〜24)や、イエスの足が折られずに、槍でわき腹を突き刺されたこと(19・ 31〜37)は、聖書の言葉の実現であると述べられます。つまり、イエスが過越の小羊であり、栄光の主であることが述べられているのです。

 イエスの埋葬にしても、大量の没薬と沈香を用いたこと(19・39)、だれもまだ葬られたことのない新しい墓に葬ったこと(19・41〜42)は、イエスの高貴さを表しています。

 このように、ヨハネは明らかに、イエスの受難と死を、イエスの普遍的王、主、過越の小羊としてのその栄光と支配の顕現として描き出しています。

 さて、私たちは聖金曜日の受難の祭儀の中で、この受難の朗読を聞いた後、十字架を礼拝します。「見よ、キリストの十字架、世の救い。ともにあがめ、たたえよう」と歌い、十字架に架けられたイエスを礼拝するのです。私たちは、はたして「この」イエスを主、救い主として本当に受け入れているでしょうか。反対と侮辱、苦しみの中で、自ら十字架を背負い、命をささげることこそが私たちの救いであると本当に納得し、信じているでしょうか。このイエスを礼拝するということは、私たちの日常生活にどのような影響をおよぼしているでしょうか。

 私はやはり今年も深く考えさせられてしまうのです。私は、主の受難と死を本当に救いとして受けとめているのだろうか、それを示す生き方をしているのだろうか、と。

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澤田豊成神父

聖パウロ修道会司祭。1965年、東京都目黒区生まれ。1996年、司祭叙階。教皇庁立グレゴリアン大学神学科修士課程で聖書神学を専攻、神学修士号取得。現在は編集をとおしての宣教に従事。東京カトリック神学院、聖アントニオ神学院講師。

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