1.文体統一の問題
訳語、文体、表記の統一、身落とされた誤訳の訂正に徹するという形で合本化の作業は再出発することになりました。ところが、「訳語、文体、表記の統一」が一筋縄ではいかない作業であることがわかってきます。祭儀用語や聖書に特有の概念の訳語の統一はわりと簡単に解決されます。問題は、通常の表現です。さまざまな人が分担して翻訳してきたわけですから、当然それぞれの個性が出てきます。約半世紀をかけての作業ですから、同じ人でも文体は変わってきます。たとえば、ある書では「主は言われる、『お前たちは・・・せよ』」となっており、次の書では「主は仰せになる、『あなたは・・・しなければならない』」となっています。また、新約聖書の福音書では「主は仰せになった」という表現が用いられているのに、旧約聖書では「主は言われた」ではおかしいのではないでしょうか。もう一つの厄介な問題は敬語です。たとえば「与える」です。「与えられる」「お与えになる」「与えてくださる」等の表現が用いられています。
ですから文体上の問題として浮上してきたのは、命令形の文章をどう訳すか、ということであり、敬語です。ある時期、聖書の翻訳において「敬語を用いない」という試みがなされました。フランシスコ会聖書研究所でも『ヨハネによる福音書』の最初の分冊がそうでした。他の国語の場合もそうでしたが、ヨハネの分冊もすぐ敬語を用いた改訂版を出しています。当然、聖書では敬語が頻繁に用いられることになるのですが、その多くの場合、受身形の敬語が用いられています。例えば、「主は言われる(言われた)」「イエスは言われる(言われた)」、そして「主が与えられる(与えられた)」等々です。少なくとも、頻繁に出るこの二つの受身形の敬語は避けることにしましたが、他の受身形をも完全に避けるとなると表現が非常に回りくどいものとなるため受身形の敬語を完全に用いないとすることもできませんでした。
もちろん、現代の聖書研究の立場からいえば、聖書の各書はそれぞれ特有の文学類型のものであり、書かれた年代も著者も異なっているのだから、統一する必要はないという見解もあります。しかし、読む側にとってはどうでしょうか。
統一のもう一つの例として、挙げたいのは登場するのが数少ないので目立たないのですが、こういう例があります。レビ記17:7、歴代誌下11:15、イザヤ書13:21、34:14の四カ所に新共同訳では「山羊の‹魔神(ましん)›」、岩波版では「雄山羊[の悪霊(あくりょう)]たち」、イザヤでは「雄山羊ども」「野山羊」と訳されています。フランシスコ会聖書研究所訳分冊では、レビ記では「やぎの姿の神々」、他は「雄やぎ魔神」となっています。合本では「雄山羊の姿をした魔神(まじん)」としています。