「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(Ⅰコリント15,51-53)
Ⅰ 私は肉身の復活を信じています。もはやヘブライ人たちは、この信仰を持っていました。ラザロの姉妹マルタは、死んだ兄弟について語りながら、イエスに、「終わりの日に復活する、と知っています」(ヨハネ11,24)と言っています。
聖師は、二つの復活があることを告げています。すなわち、「墓にいる人々がみな、その声の呼びかけを聞いて、墓を出る時が来る。善を行った人のいのちに、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる」(ヨハネ 5,28)と。このからだは、いやしめを体験し、死によって墓にほうむられますが、いつの日か、再び霊魂と結ばれ、新たに人間となるのです。イエス・キリストが死んで復活されたように、私たち各人もそのようになるのです。第四回ラテラノ公会議は次のように言っています。「すべての人は、彼らが現在もっている体をもって、報いか罰にあたいするものを得るために復活する」と。
Ⅱ 肉体に対するまことの愛は、現在の生活のあいだ、その立場に従って、あつかうことにあります。そして永遠に報いを得るために、体を準備しなければなりません。人間は理性的なたましいと有機的な肉体とからなっています。たましいとからだは、同様に作用、報いか罰かを受けるのです。たましいはより大切な部分であって、善のために肉体を用い、悪をさけるよう、その活動に際して、肉体をみちびかなければならないのです。混乱は、たましいが神にそむき、肉体を操作するにあたっての意志の無能、理性とキリスト教倫理に対して、感覚的な部分が反抗することによってもたらされます。
多くの人は、自分の肉ののぞみ奴隷になっていて、情欲に満足しきっています。そして、感覚の奴隷となっています。時としては、人間ではなく動物を眼前に見るように思われることがあります。
聖書は、「肉的な人間は、神の霊のことをわからない」(Ⅰコリント2,14)と言っています。どうでしょうか。「肉は精神に反することを望む……」(ガラテア5,17)からです。しかし、その終わりはどうでしょうか。
聖人たちは、賢明にも肉体をあたかもよい子どものように抑制しあやつりました。彼らの肉体を永遠の幸福、えもいわれぬ至福、あたかも霊化されたもののようにととのえました。「私たちはみなよみがえりますが、しかし私たちみなが変化するのではありません」(Ⅰコリント 15,51)。聖人たちは自分の体を犠牲にし、不当な楽しみを避けました。彼らの体は栄光をおびてよみがえるでしょう。しかし、虚栄者、怠け者、淫乱者はどのようになるのでしょうか。
Ⅲ 十字架につけられた主よ、あなたは、肉体を真に愛する方法においても、私の師です。あなたは模範とことばによってそのことを私に教えてくださいました。あなたは幼少の時より労苦し、貧しさのうちに生きられました。あなたは「心の潔い人は幸いである。神をみるだろうから」(マタイ 5,5)と説かれました。あなたの傷は太陽のように光りかがやくでしょう。
・糾明───私は三つの傾き、すなわち怠惰と貪食と肉欲を前にして、自分のからだをどのように持しているだろうか。
・決心───私はからだを意志に従わせ、五感をつつしみながら、まことにからだを愛したい。
『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。