きょうのミサの『集会祈願』には、「……ご自分に立ち帰るすべての者を迎え入れてくださいます。回心の道を歩むわたしたちに、神の子供としての新たないのちを与えてください」とあります。私たちは、たとえ肉体的に生きていたとしても罪を犯した状態ですと、死んでいることと同じなのではないでしょうか。改めて今の心の状態を見つめ直すことができたらいいですね。
きょうのみことばは、『放蕩息子』の譬え話の場面です。みことばの始めに「徴税人や罪人たちがみな話を聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた」とあります。イエス様は、誰からも受け入れれない寂し、罪の状態でいることの辛さ、荒みを感じている罪人や徴税人たちを優しく受け入れ、教えだけではなく、一緒に食事をしてくださいます。彼らは、今まで人々から白眼で見られ、排斥されていました。自分の辛い気持ちを話す相手もいませんでした。しかし、彼らはイエス様と接することで癒され、心が和んで行ったことでしょう。イエス様も彼らの話をうなずきながら聞いてくださっていたのではないでしょうか。まさに、彼らにとってイエス様と過ごす時間は、天の国の状態だったのです。
そんな様子を見ていたファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやいています。本来ですと、ファリサイ派の人々や律法学者は、徴税人や罪人たちを回心へと向かわせるために導くという役割を持っているのではないでしょうか。しかし彼らは、罪人と言われる人と付き合うことで、自分たちも彼らの仲間だと思われること、または、罪人と接することで自分たちも罪に汚れる、と思っていたのかもしれません。このことは、私たちにも当てはまる部分もあるのかもしれません。もし、私たちが社会的に弱い立場の人たちを遠ざけ、無視しているとしたら、やはりファリサイ派の人々や律法学者と同じなのかもしれません。
きょうの福音朗読箇所では省かれていますが、イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちがつぶやいているのを聞いて、「群れから離れて行った一匹の羊を見つけ出した羊飼い」の喩えや「なくした一枚の銀貨を見つけた女」の喩え話をされます。この二つの譬え話で共通する所は、「いっしょに喜んでください」と見つけた羊飼い、失くした銀貨を見つけ出した女がいうことです。
私は、以前買い物をしてそのまま店に財布を忘れて帰ったことがありました。しばらくして、財布がないことに気づき部屋中を探したのですが、見つからず途方に暮れたことがありました。私は思わず「アントニオ様」と心の中で呟いた時に、その品物を買ったお店に忘れてきたと気づいたのです。私は無事に財布を手にしたのですが、その時の喜びと感謝そして、安堵感が溢れてくるという体験は今でも忘れません。
さて、イエス様は、この二つの譬え話をされた後に、『放蕩息子』の譬え話をされます。みことばは、「……弟が父に向かって言った『お父さん、わたしがもらうはずの財産の分け前をください』。そこで父は資産を2人に分けてやった」と始まります。父親は、2人の息子の両方とも同じように愛していましたので、「財産を分けてください」と言った弟の分だけではなく、何も要求をしなかった兄にも同じように分けたのです。弟は、自分が受けとった資産をすべてまとめて、遠い国へ旅立ち、放蕩に実を持ち崩し、財産を無駄遣いしてしまいます。
みことばには、書かれてありませんが兄の方はその資産を貯金したのか、穴を掘って埋めたのか、そのまま頂いただけで満足したのか、彼はどのように資産を処理したのでしょう。ちょっと考えてみてもいいのかもしれません。みことばの最後の方にある「息子よ、……わたしのものはすべてお前のものだ」という父親の言葉から想像すると、兄は、自分が頂いた資産の多さに気づかなかったのかもしれません。私たちは、もしかしたらこの兄のようにおん父から頂いている恵みの豊かさ、愛の深さに気づかず、他の人の幸せを見て羨ましく思っている部分もあるのではないでしょうか。
さて弟は、自分が父親から頂いた財産を使い果たし、追い討ちをかけるように飢饉が起こり、食べる物に困ってしまい、豚が食べる蝗豆(いなごまめ)で腹を満たそうとします。豚はユダヤ人にとって汚れたものとして食べることが禁じられていました。弟は、その蝗豆さえも食べることができないほど、どん底まで落ちてようやく、自分自身と向き合うことができ、父のところで雇い人としてでもいいから帰ろうと決心したのです。私たちは、どん底この苦しみを味合わないと回心できない弱さを持っているのかもしれません。私たちは、その苦しみ、辛さ、惨めさに気づいた時に、やっとおん父のもとに立ち返ろうと思うのです。おん父は、そんな私たちを咎めるのではなく、抱きしめ、「食事をして祝おう。この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言って喜んで天の国の食卓に招いてくださいます。
私たちは、おん父の愛へと導いてくださる、イエス様の導きと聖霊の働きを感じ、おん父のもとに立ち返ることができたらいいですね。