聖書の「フランシスコ会聖書研究所訳」と「新共同訳」の訳文の違い
第5回 「つぶやく」ことの問題に気づく(ルカ15・2)
「つぶやいた」
今年の主日・祝祭日の典礼暦は3年周期のC年にあたります。C年の四旬節第四主日(今年2022年は3月27日)には、放蕩息子のたとえが朗読されます。このたとえは、直前に記されている見失った羊のたとえ、なくした銀貨のたとえとともに、神のあわれみ深さを強調しています。神は、またイエスは、いなくなってしまった罪人たちを放っておくことができずに彼らを捜しに行き、連れ帰り、大喜びで祝宴を開かないではいられない方です。それと同時に、父親は帰ってきた放蕩息子のことを次のように表現します。この子は「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び合うのは当たり前ではないか」(ルカ15・32)。「死んでいたのに生き返り」という表現は、まさにキリストの死と復活を示す言葉でもあります。神にとっては、回心する罪人とは、キリストの死と復活と同じ価値を持つということなのでしょう。
さて、これらのたとえは、ルカ15・1-3に記されているように、「徴税人や罪人たちがみな話を聞こうとしてイエスのもとに近寄ってきた」(15・1)ことに対して、「ファリサイ派の人々や律法学者たち〔が〕、『この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている』とつぶやいた」(15・2)ために、イエスが語った教えです。
この「ファリサイ派の人々や律法学者たち〔が〕つぶやいた」(フランシスコ会聖書研究所訳)という表現を、新共同訳は「不平を言いだした」と訳しています。この動詞は、文字通り「つぶやく」、「ぶつぶつ言う」ことを示しています。意味としては、「不平を言う」ということになるのですが、わたしは「つぶやく」、「ぶつぶつ言う」と訳すべきだと感じます。
この「つぶやく」という動詞は、イスラエルの民がエジプトで上げた苦難の叫びにこたえて、主である神が彼らをエジプトから解放してくださったにもかかわらず、荒れ野の歩みの途上で何度も起こした民の「つぶやき」を表す特徴的な動詞だからです。
だから、パウロはコリントの教会への手紙の中で、この荒れ野での出来事について次のように記しています。「彼らの中にはつぶやいた者がいましたが、それに倣って、あなた方もつぶやいてはなりません。つぶやいた者たちは、『滅ぼす者』によって滅ぼされました」(一コリント10・10)。この箇所も新共同訳では次のように訳されています。「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました」。
ルカ福音書15章は、ファリサイ派の人々や律法学者たちの考え方や姿勢を、荒れ野でのイスラエルの民のそれと結びつけ、それがどれほど愚かで、神の思いからかけ離れているかを、この動詞を使って示唆しているのではないかと思います。
わたしたちも、あからさまに神に不平を言うこと以上に、自分が正しい、神に従っていると思いながら、実際には神の思いからかけ離れていることに気づくことができていないということのほうが重大な問題であることに気づく必要があるように思います。
ファリサイ派の人々や律法学者たちが「つぶやいた」という表現は、彼らの問題点をとおして、わたしたちが自分自身の問題点に気づくようにという招きのように思います。
なお、ルカ福音書は他の箇所でも罪人や徴税人に関連して「つぶやく」という動詞を使っています。徴税人レビの召命の場面で、「レビはイエスのために、自分の家で盛大な宴会を催した。徴税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスの弟子たちに向かってつぶやいて言った、『どうして、あなた方は徴税人や罪人とともに食べたり飲んだりするのか』」(5・29-30)。また、徴税人の頭であるザアカイの回心の場面でもそうです。「イエスは……仰せになった、『ザアカイ、急いで下りて来なさい。今日、わたしはあなたの家に泊まるつもりだ』。ザアカイは急いで下りて来て、喜んでイエスをお迎えした。これを見ていた人々はみな、つぶやき、『あの人は、罪人の所に行って宿をとった』と言った」(19・5-7、興味深いことに新共同訳はこのルカ5章と19章では「つぶやく」と訳しています)。
この「つぶやき」の危険はわたしたちの生活の中にも見られます。まずは、そのことに気づく必要があるのではないかと思います。