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これってどんな種?

心地よさに留まらないという種 四旬節第2主日(ルカ9・28〜36)

 私たちは、今までの歩んだ道を振り返ってみた時、僅かではあるでしょうが、神秘的な体験をしたことがあるのではないでしょうか。それは、私たちが望んで行われることではなく、一つの恵みと言ってもいいでしょう。

 きょうのみことばは、イエス様が【変容】される場面です。ペトロとヨハネとヤコブは、まさに【変容】という神秘的な体験をここで遭うことになるのです。イエス様は、大切なことをなさる時には、よくこの3人の弟子たちだけを連れて出掛けられます。彼らは、イエス様が選ばれた最初の弟子たちで、たぶん他の弟子たちよりも気心が知れた仲だったのでしょう。

 イエス様は、初めてご自分がどのような最期を迎えるかということを「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、そして3日目に復活する」(ルカ9・21)と弟子たちに伝えられます。弟子たちはこのイエス様の話を聞いて不安な気持ちになったことでしょう。あるいは、「メシアである、イエス様がそのような最期を迎えるなんてあるはずがない」と思った弟子もいたのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が弟子たちに『受難の予告』をされて8日ほどたってのことです。弟子たちは、この間イエス様が言われたことを考え、いろいろなことを思い巡らしていたのではないでしょうか。そんな弟子たちのことを気にされたイエス様は、3人の弟子たちを連れて【祈るため】に山に登られます。イエス様は、弟子たちを選定する時や『主の祈り』を弟子たちに伝えるときなどを大切なことを決めたり、行われたりする時には【祈られる】のです。

 このことは、私たちが何か決めたり、大切な行事を控えたりした時に【祈る】ことと同じなのではないでしょうか。イエス様は、私たちに静かに祈る時間、場所を選ぶことの大切さを教えられていると言ってもいいでしょう。私たちは、この【祈り】を通して識別し、新たな【道】を歩むことができるのです。

 イエス様と弟子たちが登られた山は、標高575mのタボル山といわれています。この山は、お椀型の山で頂上は広く、今では教会が建てられ多くの巡礼者がバスや自動車を使って訪れています。もちろん、イエス様が登られた時は、徒歩で登られたことでしょう。みことばの中で弟子たちが「ひどく眠かった」とありますが、これは山に登った疲れが出ていたのかもしれません。イスラエルの日中は、日差しが強く暑いため朝早く起きてまだ涼しい時間に作業をいたします。ですから、イエス様が弟子たちを連れて山に登られたのも、朝が早かったのではないでしょうか。それで、弟子たちも朝が早かったことと、山に登ったこととでほどよい疲れが出て睡魔に襲われていたのかもしれません。

 さて、イエス様が祈られていると顔の様子が変わり、衣が真っ白に輝きます。このイエス様のお姿は、天の国の栄光の様子だといわれています。このような状態で祈られていると、律法を示したモーセと預言者の代表とも言われるエリアが現れ、イエス様がエルサレムで成し遂げようとしておられる【最期】について語られます。イエス様が【祈られる】ために山に登られたのは、この【最期の時】について3人で話すためだったのです。そして、イエス様が3人の弟子たちを連れて山に登られたのは、ご自分の【最期】がどのようになるかを詳しく彼らに教えたかったのかもしれません。

 しかし、せっかくイエス様が彼らにその貴重な体験をさせようとされたにも関わらず、「……ひどく眠かった。それでも目を覚ましていると、イエスとともに立っている2人を見た。」とありますように、弟子たちは必死に睡魔と戦っていたのです。私たちは、就寝する眠りと、あまりにも心地よい気持ちになって眠くなる時があるのではないでしょうか。弟子たちは、多少の疲れもあったでしょうが、イエス様が2人と話されている【場】の心地よさに眠気を感じていたのかもしれません。ペトロが「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです」と言っているのは、このなんとも言えない【心地よさ】に包まれていたからではないでしょうか。私たちは、三位一体との交わりの【時間】を感じる時、弟子たちと同じような【心地よさ】を感じることがあるかもしれません。

 ペトロは、この【心地よい時間】がいつまでも続くように3つの仮の庵を作ることを提案します。しかし、その時、雲が彼らを覆って、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。彼に聞け」というおん父の声がします。このことは、その場の【心地よさ】よりも、【イエス様に聞くこと】の大切さを伝えているのではないでしょうか。心地よさに浸り酔うのではなく、現実の生活の場で【イエス様に聞く】、【イエス様を中心に置く】ことが大切だということを、おん父は、私たちに教えておられるのではないでしょうか。

 私たちは、共同体で分かち合いや、あるいは、典礼、黙想会なので、神秘的な体験を味わうことがあります。それも大切ですが、その恵みの心地よさに留まるだけではなく、日常の生活の中で、おん父への導き手であるイエス様の声を祈りのうちに【聞き】、一緒に歩んで行くことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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