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カトリック入門

「カトリック入門」 第67回 京都の殉教者【動画で学ぶ】

*京都の中心街を流れる鴨川。この川で殉教者の血が流れたことは想像しにくい。清らかで、朗々と流れている。
 江戸時代初期の日本の三大殉教と言えば、長崎、江戸、そして京都。長崎は1622年、江戸は1623年、京都は1619年です。
 京都の殉教は女性や子どもが数多く含まれています。

1)歩み
*フランシスコ・ザビエルが京都にたどり着いたのは、1550年のこと。
 その後、トーレス神父、ヴィレラ神父、ロレンツォ修道士などが宣教に励み、1576年には京都に聖母教会が献堂されるほど、京都のキリシタンは発展します。数多くの人たちが信仰へと導かれますが、1614年には都でキリシタンに対する弾圧が厳しくなってきました。宣教師たちはマニラやマカオへ追放され、信徒の世話役たちは東北へ流され、下級武士と貧しい信徒だけが残ります。彼らは貧しいながらも支え合いながら信仰を深めていました。
*1619年、将軍徳川秀忠はキリシタンに対する迫害を強化し、63名の信徒たちが牢に入れられ、牢獄は極めて過酷な状況で、8名が牢死、3名が転びます。伏見城に滞在していた秀忠は、信仰を捨てない牢獄の信徒たちに激怒し、男女、子どもを問わず処刑するように命じます。これは徳川幕府が新しい体制のもと、本拠地を京都から江戸に移す前に行った見せしめにもなりました。

2)殉教
*1619年10月6日、キリシタン52名(男26名、女26名。そのうち子どもは11名)は、一条戻橋(いちじょうもどりばし)から鴨川が流れる六条河原まで引き回されました。
 一条戻橋はかつて日本26聖人が引き回しの刑に処せられた出発地であり、またキリシタン大名の小西行長が処刑された場所でもありました。都の人々にとっては処刑場ということもあり、いちばん目にしたくない場所でしたが、キリシタンにとっては十字架の苦しみから復活へと向かう栄光の場所で、殉教者を数多く輩出した祝福された地でもありました。
*復活の栄光を信じながら市中を引き回された52名のキリシタンたちは六条河原辺りに到着します。52名の中でも際立った信仰を見せたのは、殉教者たちのリーダー格でもあったヨハネ橋本太兵衛の一家でした。役人たちはこの一家などを処刑すれば、信仰も広がらないだろうと思っていました。
*処刑にあたり、27本の十字架が鴨川近くに立てられました。南から一番目がヨハネ太兵衛。中ほどの十字架にはヨハネの妻で身重だったテクラと5人の子どもたち。
 テクラは3歳のルシアを抱いて、両横に12歳のトマスと8歳のフランシスコ。隣の十字架には13歳のカタリナと6歳のペトロ。子どもたちの他には奉公人もいっしょに十字架に縛られ、十字架を囲む薪の輪に火がつけられて殉教しました。
*火あぶりとなった彼らは、炎と煙で息ができなくなり、長時間にわたる苦しみの中で亡くなっていきます。
 その当時の資料によれば、
 「テクラの娘カタリナは隣の十字架から母に向かって、『母上、もう何も見えません』と叫んだ。テクラは『そんなことを心配しないで、イエスとマリアの名を呼びなさい。もうすぐにパライソに着きますから』と励ました。やがて式が終わって、テクラの腕にはまだルシアを固く抱いたままでした」と。
 子どもにとっては、何が起こるかは十分に分からなかったかもしれませんが、子どもたちはお母さんといっしょだからということで、全てを受け入れています。

3)メッセージ
*小さい子どもたちもいっしょに殉教していくことは、残酷なことだと批判されるかもしれませんが、お母親としての導き方、育て方、また子ども自身の母親に対する深い信頼などを京都の殉教者に見ることができます。

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