キリスト教の断食は、ユダヤ教の断食の習慣を受け継いでいます。洗礼者ヨハネやその弟子たちは断食していましたし、イエス様も四十日の断食をなさいました。西暦一〇〇年頃書かれた『ディダケ』(十二使徒の教え)には、当時のユダヤ教徒やキリスト教徒が週二日の断食をしていたことが記されています。また洗礼の前に、洗礼志願者は一日か二日の断食をすること、それに合わせて、洗礼を授ける者も周囲の者も、可能な限り断食をする習慣があったことが記されています。この洗礼志願者の断食が出発点となって、復活祭を迎える準備の断食が一般に広まったと考えられます。復活祭のための断食は、初代教会において広く行われるようになりましたが、この習慣を成文化したのが西暦三二五年のニカイア公会議でした。
当時の断食は、今日の私たちの断食とは比べ物にならないほど厳しいものです。動物の肉を断つばかりでなく、魚も、卵も、バターなどの乳製品も断ちました。断食する日数も半端ではありません。西方教会の場合、月曜から土曜日まで日曜日を除く毎日で、これが六週間続きました。七世紀までには「灰の水曜日」から断食を始める週間が広まり、四旬節の断食日数が四十日に整えられました。さらに当時の断食の場合、一日一食で、摂るのは夕刻と定められていました。夕刻まで飲み食いを断つのは余りにも厳しく、九世紀になると、午後三時以降に食事を摂ってよいことになり、十五世紀にはお昼になれば食事をしてよいことになりました。こうした緩和の傾向と並行して、魚、卵、乳製品の摂取も許容されるようになりました。さらに第二バチカン公会議の後は、断食日は「灰の水曜日」と「聖金曜日」の二日にまで減じられました。
以上は西方教会における断食の歴史です。東方教会の断食の歴史は西方教会のそれとはいくらか異なり、東方教会には東方教会の断食の歴史があります。たとえば東方教会に「灰の水曜日」はありません。東方教会の断食は、灰の水曜日のおよそ三週間前から段階的に始まります。しかも西方教会のように肉を断つだけでなく、魚も、卵も、バターも、ラードも、チーズも、一切の乳製品を断ちます。こうした厳しい断食は、今日でも多くの東方教会で守られています。東方教会の断食を守る人々にとって、四旬節は苦しい時です。それだけに復活祭の喜びが輝きます。