パウロ自身と使徒言行録の視点の違い
前回、わたしたちは使徒パウロの「回心」の出来事を、パウロ自身が書いた手紙をもとにして考えました。今回は、使徒言行録の記述をとおして考えることにしましょう。パウロ自身は、復活なさったキリストに出会い、このキリストから直接、福音を受けたことを強調しています。
使徒言行録も、パウロが復活なさったキリストと出会ったことを強調します。「突然、天からの光が彼(=パウロ)の周りを照らした。彼は地に倒れ、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。そこで彼が、『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、その声は仰せになった、『わたしはお前が迫害しているイエスである。さあ、立って町に入れ。お前のなすべきことが告げられるであろう』」(使徒言行録9・3-6)。使徒言行録は、「彼に同行していた者たちには、声は聞こえたが、誰も見えないので、物も言えずに立ち尽くしていた」(9・7)と記しています。キリストとの出会いの体験は、パウロだけに向けられた神秘体験だったのでしょう。
しかし、使徒言行録では、キリストはパウロに次のように仰せになります。「さあ、立って町に入れ。お前のなすべきことが告げられるであろう」(9・6)。つまり、パウロが何をすべきか、その場ではキリストは告げることなく、町に入るように命じられるだけです。
それまでの敵対者であったアナニアをとおして働きかけてくださる神
そこに派遣されたのが、ダマスコのキリスト者であったアナニアという人物です。パウロがダマスコに向かったのは、ダマスコにいるキリスト者をすべて縛り上げ、エルサレムに連行するためでした(9・1-2参照)。文脈から考えると、アナニアはダマスコの教会の責任者だったのではないかと思われます。ですから、パウロがひどい目に遭わせようとしていた中心人物です。
キリストは、このアナニアに現れ、パウロのもとに行くように命じられます。パウロの上に手を置き、再び目が見えるようにし、パウロが何をすべきか告げるためです。しかし、それはアナニアにとって受け入れがたいことでした。だから、アナニアは反発します。「主よ、あの男がエルサレムで、あなたの聖なる人々に、どれほどひどいことをしたか、わたしは多くの人々から聞きました。そして、ここでもあなたの名を呼ぶ者をことごとく縛り上げる権限を、祭司長たちから受けているのです」(9・13-14)。しかし、キリストは仰せになります。「さあ、行きなさい。彼は異邦人や王たち、また、イスラエルの子らの前にわたしの名をもたらすために、わたしが選んだ器である。わたしの名のために、どれほど苦しまねばならないかを、わたしは彼に示そう」(9・15-16)。こうして、アナニアはパウロのもとに向かいます。
パウロの側も、このアナニアに手を置いてもらって、目が見えるようにしてもらい、アナニアから洗礼を受けるように求められます。パウロにしてみれば、キリストが生きておられ、自分にお現れになったことでさえ、思いもよらないことでした。しかし、キリストご自身がいやしてくださり、何をすべきか告げてくだされば、まだ受け入れることは容易だったことでしょう。しかし、敵対者とみなしていたキリスト者であるアナニアの前に頭を下げ、何をすべきか聞くようにパウロは求められるのです。
これが、使徒言行録の描き出すキリストのなさり方です。「回心」とは、キリストを信じ、キリストに立ち返るだけでなく、他の人々と和解すること、いや他の人々をとおしてキリストに立ち返ることを意味するのだと思います。それは、パウロを受け入れるキリスト者たちにも向けられています。自分が受け入れることの難しい人をとおしてこそ、キリストは働かれ、わたしたちを信仰へと導いてくださるのです。それが、真の回心、和解だからです。