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これってどんな種?

出会いという種 年間第5主日(ルカ5・1〜11)

 私たちは、生きている中でたくさんの人と出会います。その出会いは、人によって一生を左右することもあるのではないでしょうか。私が修道者の道を選んだのは、私が小学4年生のころある神父様との出会いでした。さらに、この道を歩み続ける中でもいくつかの出会いによって助けられました。おん父のご計画は、この一つひとつの出会いの中にも働かれているのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、最初の弟子たちの召命の場面です。イエス様は、ガリラヤを中心に宣教されていました。イエス様の教えは、他の律法学者やファリサイ派の人たちとは違ったようで、きょうのみことばの少し前には、「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉に権威があったからである」(ルカ4・32)とありますように、人々の心の奥に浸透して行ったのでしょう。きょうのみことばは、「さて、神の言葉を聞こうとして、群衆がイエスの周りに押し寄せてきたとき……」という言葉で始まっています。それほど、イエス様の話は、彼らにとって生きる力となっていたのではないでしょうか。

 この時、イエス様はゲネサレト湖の岸辺に立っておられたのですが、あまりにも多くの群衆でうまく話すことができなかったのでしょう。そのため、シモンの舟に乗り岸から少し離れるように頼まれます。イエス様は、座られ、舟から群衆に教え始められます。イエス様が【座られ】たのは、ラビが人々に教える時の動作だったようです。ですから、群衆は、イエス様が座られたのを見て「いよいよ、イエス様の話が始まる」とわかったのです。さらに、イエス様が【舟】に乗られたということは、【教会】を表しているのではないでしょうか。教会は、イエス様が中心におられ神の言葉を伝え、恵みを与えると言ってもいいでしょう。

 イエス様は、人々に話し終えるとシモンに「沖に乗り出し、網を下ろして、漁をしなさい」と言われます。この言葉を聞いたシモンはどのような気持ちだったでしょう。彼らは、舟を降りて網を洗っていたとありますから「もう、今日の仕事は終わった。魚も一匹も捕れなかったし家に帰ってゆっくりしよう」と思っていたのかもしれません。そんな時に、漁に関しては全くの素人であるイエス様が「沖に乗り出し、網を下ろして、漁をしなさい」と言われたのです。シモンは、イエス様に「先生、夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろして見ましょう」と言います。シモンは、「そんな魚なんて捕れるはずがない。そこまで言うのでしたら網を下ろして見ましょう」と思っていたのかもしれません。しかし、シモンは、【そのとおりにすると】おびただしい魚が掛かり、網が裂けそうになります。シモンは、半信半疑だったのかもしれませんが、イエス様が言われたとおりに実行いたします。この奇跡は、シモンがイエス様から【言われたとおり】にしたことから起こったのです。

 私たちは、シモンと同じような体験をするようなことがあるのではないでしょうか。自分の力の限界を感じながらも、誰かの勧めによって乗り越えることができた、または、何か頭の中に浮かんできたひらめきを素直に行うことでうまくできたというようなことがあるのではないでしょうか。大切なことは、識別をしながら周りの声に耳を傾け、素直に行うというとなのかもしれません。

 シモンの舟は、おびただしい魚のために沈みそうになり仲間の舟に合図をして手伝ってもらいます。これは、協力ということを表しているのではないでしょうか。私たちは、一人では限界がありますが、仲間に助けられることでうまく物事が進むということがあります。また、人に頼むという時【謙遜】な心がないとできません。舟という【教会】は、お互いが助け合いながら、前に進んでいくということではないでしょうか。

 シモン・ペトロは、イエス様の足元にひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と言います。シモンの心は、イエス様の奇跡によって打ち砕かれたことでしょう。シモンは、自分の姑をイエス様から癒されたことがありました(4・38〜39)のでイエス様が奇跡を起こされる事を知っていました。しかし、それは、自分の体験として感じていなかったのです。しかし、今回の奇跡は、自分のものとして体験し、心が揺さぶられるほどの衝撃があったのだと思います。シモンは、自分の罪深さを感じ、イエス様の側にいること自体恐れおおく感じたのでしょう。しかし、イエス様は、「恐れることはない。今から後、あなたは人を漁るようになる」と言われます。

 私たちは、自分の弱さを知っていますし、なるべくなら他の人に気づかれないようにします。しかし、イエス様は、その私たちの【弱さ】をご存知で、しかも、私たちの【弱さ】をうまく生かされるお方なのです。パウロは「わたしは、弱っている時こそ、強いからです。」(2コリント12・10)と言っているように、自分の弱さを知ったとき初めてイエス様の溢れるほどの恵みが与えられるのではないでしょうか。私たちは、シモンがイエス様との出会いによって使徒となり、【人を漁る】という【召命】を頂いたように、周りの人との出会いによってイエス様の声に耳を傾け、そのとおりに実行することができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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