今日の第一朗読はシラ書の27章ですが、最初の箇所で次のようなことばが記されています。「ふるいにかけると、屑が残るように、人の欠点は、語り合っている時に現れる。陶工の器が炉で試されるように、人は議論によって試される」(シラ27・4~5)と。
最近、派手な喧嘩や議論を見なくなった感じがしますが、喧嘩はしなくても、時にはトコトン議論することも大切かもしれません。議論することによって、お互いの本音が聞けた吏、相手の気持ちがよく分かったりするものです。ウヤムヤのままだと、何だかすっきりしない感じがします。
こうしたこととつながるような感じで、今日の福音は、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ、あなたの目にある丸太に気づかないのか」(ルカ6・41)とイエスは語ります。相手のことばかり指摘して、自分の中にある弱点、欠点に気づいていないということでしょう。日本のことわざにも、「灯台、もと下くら暗し」という言葉があります。周囲は分かっても、自分自身のことがよく分かっていない状況とも言えます。
時々、教会のお手伝いで出かけることがあります。ミサをお願いされた時には、だいたい説教も頼まれたりします。初めての教会の場合、若干、緊張感があると共に、意外と目の前の人に気づかなかったりする時があります。日曜日などで説教をする時、通常、遠くの方に目がいきますので、ミサの時間に遅れて、申し訳なさそうに静かに入ってくる人のほうが、説教している側からすれば、よく見えています。ところが、一番前列の方が、熟睡している場合、案外気づかないものです。身近なことに気づかない典型的なパターンでしょうか。
自分の目の丸太。他人のことよりも、自分自身のことをしっかりと見つめたいものです。