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最初の宣教師たち

新しい宣教師たち――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(23)

 一九三六年から第二次世界大戦の開戦(一九四一年)まで、王子における聖パウロ修道会の生活は積極的で活発なものであった。実際、この地における役務としての使徒職は感動にあふれたもので、私たちに忘れることのできない満足と消えることのない喜びを与えてくれた。その後、私たち二人を応援するため、イタリアから四人の会員が相次いで来日した。彼らは最初、小教区の宣教司牧に著しい貢献をなし、続いて地域社会の環境の向上に、そして最後には私たち聖パウロ修道会の特別な使徒職、すなわち「出版活動」に多大な貢献を果たしてくれた。

 その四人の会員とは、ジャコモ・パガニーニ神父、ミケーレ・トラポリーニ修道士、カルロ・ボアノ神父、ジョヴァンニ・キエザ神父であった。彼らは一人がリグリア、一人がマルケ、二人がピエモンテの出身であった。各人のプロフィールを紹介しよう。

 パガニーニ神父はイタリアから直接日本に来たのではなく、インドの聖パウロ修道会から来日した。彼は日本に滞在する人々にとって必要不可欠である英語を習得するのに十分なだけの期間、インドに滞在していた。日本はその頃からすでに、学校教育に英語教育を取り入れていたのである。パガニーニ神父は物静かで賢明、思慮深い人柄で、日本語の勉強を難しいところから始めた。つまりパウロ神父や私と違って、書き言葉からでなく、いきなり漢字や仮名から始めたのだ。彼は話す言葉を書き写したりせず、繰り返し文字をじっと見つめることで、比較的容易に日本語を習得していった。このようにして約一年の学習の後、彼は先に来日した私たち二人よりも、ずっと多くの漢字を習得していった。彼は日本語の新聞を読み始め、わずかな間に高い水準の日本語を習得するのに成功した。

 パガニーニ神父は口数が多い方ではなく、沈黙を好んだ。そのため、彼の日本語の発音はパウロ神父のような見事なものではなかったが、その代わりにより多くの漢字を知っていて、込み入った難しい話や普段あまり使われない言葉が理解できるという面があった。

 結果的にパガニーニ神父の高い外国語の習得力は、私たちにとり大いに有益なものとなった。初めて印刷に使用する「活字ケース」を購入したとき、日本人の若者たちが活字を拾って組版を作る作業で、パガニーニ神父は彼らの植字を監督してゲラの校正ができたからである。漢字習得の優れた能力と、それを使いこなす才能は彼の日本人に対する理解を深め、また言うまでもなく、彼と知り合った多くの人たちの好意を得た。(監修者注:グイド・パガニーニ神父は、一九九四年に八十三歳で帰天した。)

 ミケーレ・トラポリーニ修道士は直接母国(イタリア)から日本に来た。彼はうらやましいほど善い性質に恵まれていた。その明るいほほ笑み、陽気で快活な行動は、まさに日本人の心理的特性にとって申し分ないものであった。彼は文法書や他のテキストを使わずに日本語を学んだ。そうしたものは彼には必要なかったのだ。彼は人々の話の輪に入ることで言葉を覚え、わずか数カ月で身振り手振りを交えてではあるが、意志の疎通が図れるようになった。修道士という身分上、人々に説教したり宗教の問題について話したりする必要がなく、正確で的確な言葉を常に必要としていた私たち司祭よりも限られた言葉で十分だったということも、彼の日本語習得というこの難題を易しくしていた。

 「ミケーレさん」(日本人はみな、彼のことをこう呼んでいた)は、たちまちみんなの友達、特に子どもたちの親しい友人となった。パウロ神父や他の司祭たちからの指示や命令を受ける時の彼の従順は、敏速でしかも完全であった。彼はすばらしい働き手であり、その従順と明るさは彼の生涯を通じて変わることはなかった。トラポリーニ修道士は一九七八年一月二十一日、ヴィチェンツァの修道院で帰天した。享年六十四歳であった。

 創立者アルベリオーネ神父は、またカルロ・ボアノ神父という「本物の音楽家」を日本に派遣した。それはたいへんすばらしい考えであった。と言うのは、日本において音楽教育はとても重要であり、したがって多くの人がいろいろな種類の音楽や歌を知っていて、それらをまた好んでいたからである。ボアノ神父は秀でた音楽的才能によって、教会の若者たちを指導した。彼の好ましい社交的な性格は地元の人たちとの交際に向けられたので、彼にとって日本語の問題は越え難い障害とはならなかった。ボアノ神父は機会に応じて、時には洗練された上品な語り口で、またある時はその土地の方言を駆使して、いろいろなグループの人々と流暢に会話を交わすようになったのである。

 ボアノ神父は今も日本で生活していて、「回想録」の執筆に余念がない。私は長い年月、彼と熱い友情で結ばれたことをここイタリアの地で思い出して喜んでいる。私たち二人は一九二〇年から二四年(私たちが本当に若かった時代)まで、あのアルバ(ピエモンテ)の忘れ難い教区神学校において同級生だったのだ。ボアノ神父は七十七歳でまだ現役である。(監修者注:カルロ・ボアノ神父は、一九九八年に東京の聖母病院で帰天した。享年八十九歳だった。)

 ジョヴァンニ・キエザ神父の特徴は「万能さん」ということである。彼はどんな仕事も、どんな任務も喜んで引き受け、しかもそれを見事になし遂げた。彼は機械と電気に関する豊かな知識を持って日本に来たが、他の学問についても才能があった。私たちが一番最初に持った小さな印刷所で、彼は印刷機の据え付けとその運転のために、決定的で重要な役割を果たした。またフランス語に堪能で英語にもよく通じていたキエザ神父にとって、日本語はさほど大きな障害とはならなかった。こうした彼の働きは、後にパウロ神父が始めた社会的性格の事業にとって、また日本で初のカトリック・ラジオ局の開局において、極めて貴重なものになるのである。キエザ神父はイタリアに戻り、現在、ローマの総本部修道院にいる。(監修者注:ジョヴァンニ・キエザ神父は、一九九〇年に七十八歳で帰天した。)

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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