序)ユスト高山右近は2017年2月、福者に挙げられた。彼の生涯は試練の連続で、地位も名誉も失う中、キリストの教えに従った人。
<生涯>
*1553年、摂津高山に、飛騨守の長子として生まれた。幼名は彦五郎。
*1563年、肥前の大村純忠が洗礼を受け、最初のキリシタン大名となる。父の高山飛騨守も洗礼を受けてダリオと名乗る。右近は10歳の時にロレンツォ了斎の話を聞き、洗礼を受け、ユストと名乗る。他にもダリオ夫人、家臣など、150名が洗礼を受ける。
*1568年、父が芥川城を授けられる。1571年、高山氏は高槻に移る。
*1574年、高山右近は高槻城主となり、荒木村重に属する。右近、余野のクロダ氏の娘ユスタと結婚する。高槻に天主堂を建設した。
*1576年、オルガンティーノ神父を招き、高槻で復活祭を盛大に祝う。8月15日には、京都の教会(南蛮寺)の献堂式を行う。1577年、一年間に4000人の領民が洗礼を受ける。
*1578年、豊後の大友宗麟が洗礼を受け、キリシタン大名となる。荒木村重が織田信長に謀反を起こす。右近は、高槻城を開城し、織田信長に従う。
*1580年、安土城築城に伴い、安土セミナリオ(神学校)を建設。
*1581年、巡察師ヴァリニャーノ神父を高槻に迎え、盛大に復活祭を祝う。
*1582年、本能寺の変が発生し、織田信長が亡くなった。右近、山崎の合戦で先陣。4000石を加増される。安土のセミナリオを高槻に移す。
*1583年、賤ケ岳(しずがだけ)の合戦に秀吉方で出陣。しかし、佐久間盛政に敗北を喫した。また大阪城築城にあわせ、大坂南蛮寺(教会)を建設。小西行長、蒲生氏郷などが洗礼を受ける。細川忠興、前田利家は洗礼を受けなかったが、右近の影響を受けてキリシタンに対して好意的だった。
*1586年、イエズス会の管区長ガスパル・コエリヨを伴い、大坂城で秀吉に謁見。
*1587年、秀吉の九州平定に参加。しばらくして、秀吉が伴天連追放令を出し、右近の領地が没収され、追放される。小豆島で小西行長にかくまわれる。
*1588年、小西行長と共に肥後へ。秀吉の命令で前田利家預けとなり、金沢へ移動。前田利家から1万5000石を得て暮らした。
*1590年、小田原攻めに出陣。武功を挙げる。追放処分の立場ではあったが、八王子城での戦いにも参加している。
*1592年、秀吉、朝鮮半島侵略(文禄の役)
*1597年、長崎で日本二十六聖人の殉教。
*1598年、秀吉が病で亡くなり、1599年には前田利家が亡くなる。彼の嫡男・前田利長の庇護を受け、右近、金沢城を修築。
*1600年、関ヶ原の戦いで前田利長に従い、大聖寺(だいしょうじ)城を攻略。
*1605年、金沢に教会が建てられた。1608年、金沢でクリスマスが祝われる。
*1609年、右近は前田利長の命により、高岡城を築城する。
*1614年、江戸幕府がキリシタン禁令を発布。右近一家は金沢を退去し、大坂から船で長崎へ移動。国外追放処分となり、長崎からジャンク船でマニラへ出発した。マニラで大歓迎を受ける。
*1615年、マニラ到着後、40日ほどで熱病にかかり、2月3日に亡くなった。マニラで葬儀が行われ、イエズス会の聖アンナ聖堂に埋葬された。63歳。