監修者注:王子教会時代から信徒たちはパウロ・マルチェリーノ神父とロレンツォ・ベルテロ神父を、分かりやすくそれぞれパウロ神父様、ロレンツォ神父様と呼んでいた。以下の文中ではできるだけこの呼び方を使うことにしたい。
日本語の学習期間を終えて、大森の小教区で日本における司祭職の「試運転」をした後で、シャンボン大司教は私たちに大森区とは反対側にある工業地帯「王子区」の司牧を委ねられた。「大森」が日本における聖パウロ修道会の「ベトレヘム」であったとすれば、「王子」は日本における私たちの「ナザレ」である。王子区は私たちにとって、最初の「使徒職センター」になった。王子区、そこは日本の人々と出会い、日本社会固有のメンタリティーに触れ、そのメンタリティーが善良ではあるが引っ込み思案で難解であることを理解するため、そして終わりの時期には私たちの会の特別な使徒職である「出版事業」を開始するために、大いに役立った場所なのであった。
さきほど私は王子区が大森区の反対側に位置すると言った。大森から王子までは省線(当時の国鉄)で約一時間かかり、距離は約四十キロメートルである。王子区は人口の密集した工業地帯で(約三十万人)、カトリックの家庭は一二〇世帯であった。二人の宣教師にとっては、非常に広大な活動範囲なのであった。いろいろな教派のキリスト教信者が各々の礼拝所を持っていたにもかかわらず、この地区におけるカトリックの教会は一つもなかった。
二年間に及ぶたゆまぬ語学学習のおかげで私たちの日本語は大いに進歩し、中学校の低学年のレベルを越えるくらいに成長していた。パウロ神父はその鋭い知性と非凡な記憶力によって長足の進歩を遂げていた。ロレンツォ神父も正確な日本語が話せるようになり、ミサの説教(細心の準備をして臨んでいた)や、カトリックの教理を教えるまでに上達していた。「一生かかって日本語を学んでも、完全に習得するまでにはならない」と考えるのは、あながち間違ってはいない。しかしそれは私たちだけでなく、日本人にとっても同じなのである。彼らは高校と大学で学ぶ間に約五万字もの多くの漢字を学ぶ。しかしそれ以外の漢字が、まだ数限りなく存在しているのである!
一九三六年、シャンボン東京大司教は私たちの日本語がどの程度のものか試してみようと考えられた(大司教は私たちに対して、いつも大森教会の主任司祭コルニエ神父を介してかかわっておられた)。その年の半ば、彼は私たちを大司教館に呼び、彼のよく知っている日本語で慈父のごとく優しく話しかけられた。それは私たちの日本語の習熟度をテストするためのものだった。私たちは彼の言葉を全て理解し、正確な日本語で答えた。すると大司教は、次のように言って私たちを退室させた。
「あなた方に司牧の仕事を任せるのはまだ少し早いが、この心地よい響きの言葉(日本語)をこれからも勉強し続けると約束するのなら、あなた方に小教区を任せよう。カトリック教会がまだ無い、王子区で宣教する許可をあなたがたに与える」。
パウロ神父は大司教館を出るやいなや、両手を大きく広げて「聖パウロ、万歳!」と叫んだ。そして、「今日は私たちの『堅信の日』だ!私たちは活動の場を得たのだ。さあ、私たちの証しを立てなければならない」と言った。
すぐに集会用とミサ聖祭のため、そして私たち宣教師が日常生活に使う大きな家を見つけるため、王子区の地域を見て回った。今、私ははっきりと断言する。「王子区は、日本における聖パウロ修道会の最初の本拠地であったのだ」と。
王子区は先ほど触れたように人口は約三十万人で、住民の大多数が会社員、学生、労働者で構成されている。省線電車は毎朝、仕事や大学に行くこれらの人々でいつも混雑していた。この地域の中央には大きな製紙工場があり、この工場は毎日、東京における発行部数が実に四百万部から五百万部という日刊新聞用の紙を供給していた。今日、主な日刊紙の発行部数は一千万部以上になっている。ついでに日本は、世界でも最も「読書をする国民」であるということを付け加えておきたい。
十歳の子どもから九十歳の老人まで、みんなが何かしら「活字」に触れている。このため日本人は、文学、技術、すべての進歩した分野において東洋の国々の先頭に立っているのである。王子区には製紙工場の他に、あらゆる種類の工場が点在していた。この地域は、低地であまり健康によくない地帯と、景観の良い高台の地帯とがあった。私たちはその快適な高台の「省線」の駅に近い場所に聖パウロ修道会の本拠を定め、小教区教会とそれに付属する司牧的・社会的事業のセンターとした。
この地域には神道の神社も幾つかあったが、圧倒的に多いのは仏教の寺院であった。南インドシナ大陸から伝来した仏教と異なり、神道は日本で最も古い宗教である。神道は汎神論的な自然崇拝の宗教で、太陽、風、水、火、花、木などが「ご神体」として崇められている。その信仰対象には、英雄的な死を遂げた人々や亡くなったすべての先祖たち、そして地上における「最高権威者」である天皇も含まれている。天皇と神とは同義語なのである。日本人は擬人化された最高神を、太陽の女神「天照大神」だと考えている。大自然は、全能の神からの直接の発出だと思っている。したがって神道は私たちカトリックの「一神論」と遠く隔たったものではなく、神々への礼拝を儀式そのものに集約していて、それは日本人が誇りとしている文化や倫理的伝統、日常的な生活習慣になっているのである。だから洗礼志願者は神道的な生活習慣を保ちながらも、カトリックの洗礼を受けることができるのである。
この地域には主要な仏教寺院が二つあった。一つは「収穫の神」にささげられたもので、もう一つは「聖なる山の女神」にささげられている。それは国民の間に広く流布している、皇室の歴史(先祖たち)にかかわる一連の神話である。
この王子区の三十万の住民のうち、カトリック世帯はわずかに三十ほどであった。彼らは毎日曜日、どこかのカトリック教会でミサにあずかるため、自宅から数時間をかけて「小旅行」をしなければならなかった。私たちが教理を教えてから六年後、この地域のカトリック信徒は数百人にまで増えた。この司牧の仕事は骨の折れる困難なものであったが、パウロ神父は、ロレンツォ神父とイタリアから応援に来日したグイド・パガニーニ神父の協力によってそれを立派に成し遂げた。カトリックに改宗する人の数は多く、非カトリック者に向けた社会的性格の事業は日増しに増大していった。そして私たちの小教区教会は、聖パウロ修道会の特別な使徒職の具体的かつ最初の「しるし」として、ついに小さな印刷所をもつに至ったのである。
この地域で最初に改宗したカトリック信徒たちは、日曜日になるとキリスト教をまだ知らない親戚や友人、知人、近所の人たちを教会に連れてきた。この人たちはすぐに求道者となり、教理を学び、洗礼を受けるようになった。
新しく信徒になった人は、古くからの信徒にも他の宗教の人たちからも関心の的となった。洗礼の日は、成人受洗者にとって生涯の最も記念すべき、感動的な日として記憶された。毎年、受洗した日が巡って来ると、彼らはいつもそれを記念しお祝いしていた。
改宗した家族は家から教会まで五~十キロも離れていても、少しも不平を言わないだけでなく、むしろみんなとても満足し、自分たちの地域にようやく教会を持つことができたことを大いに誇りとしていた。私たちは、人が真に神を愛するとき、犠牲も困難も消え去るか、あるいはその重みが大いに減じられるということを現実に体験したのである。
司牧の他に、私たちは信徒たちと親しい交わりを続けることができた。パウロ神父と私は、いつでも言葉で、または助けを必要としている人の話に喜んで耳を傾け、助言し、いつでも彼らを支える態勢でいたので、たいへん尊敬されていた。特にパウロ神父はみなに安心と共感を与え、彼らからとても愛されていた。パウロ神父の言葉は、それが単なる「勧めの言葉」だったとしても、「命令」として信徒たちに受け入れられた。人々はそこに神のみ旨の明らかなしるしを見て、心から喜んでパウロ神父の言葉に従った。
ミサが終わると、祭壇は開閉式の扉によって信徒席から仕切られ、信徒席はあっという間にホールに変わった。そこにテーブルが持ち込まれ、神父たちは信徒と一緒にお茶を飲んだり、遠方から来ている人たちは持参したお弁当を広げた。聖なる喜びのうちに私たちは、解決すべき問題、新しい大きな計画、使徒職の諸分野における計画、それが宗教的背景があるものにせよ、社会的背景のものにせよ、信徒に関わることにせよ、信仰を持たない人たちに関わることにせよ、私たちの関心を引いたすべての必要と思われる事柄に区別なく応じるために話し合った。そして、時間はいつもあっと言う間に過ぎていった。
こうして、次に述べるさまざまな事業計画がこの集会から生まれ、パウロ神父はいつでそうした計画の忍耐強い推進者、中心的な存在だった。彼はその優れた倫理的で知的な才能、真心のこもった態度、ダイナミックな精神などによって、目標達成の妨げになっている障害を、いともたやすく克服していったのである。
パウロ神父は、いつも楽しそうであった。朗らかで、喜んで人々に接し、話し合い、神が摂理によって実現させてくださる明らかな進展にとても満足しているように見えた。
しかしその喜びは、計画が満足のいく結果になったという表面的なことではなく、次第に目標が達成されていくことによる深い慰めという、何よりも内面的な理由によるものであった。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年