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これってどんな種?

星の導きという種 主の公現(マタイ2・1〜12)

 都会で夜空を見上げる時、「星」の輝きよりも、大きて明るい「月」が先に目に飛び込むのではないでしょうか。私が20代の頃フィリピンに2週間ほど滞在した時に、ホームステー先で見た星は、今にも降ってくるようで、「星ってこんなに輝いているのだ」と感じたことがありました。私たちにとって星の輝きを感じる時は、大切な時間なのかもしれませんね。
 きょうのみことばは、東方の博士たちがお生まれになられたイエス様を探し求め礼拝する場面です。きょうの箇所の少し前でヨセフ様への主の使いが夢に現れ、「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。……彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい、その子は自分の民を罪から救う」(マタイ1・20〜21)とあります。イエス様は、このヨセフ様が主の使いのお告げを忠実に果たされたことでお生まれになられました。

 そして、ちょうどその時、東方からの博士たちがエルサレムのヘロデの所に来て「お生まれになったユダヤ人の王は、どこにおられますか。」と尋ねたのでした。この博士たちは、どうやら「天文学者」のようでいつも天体を眺め観察していたのです。ですから「ユダヤ人の王」の星が昇ったのに気づいてエルサレムまで来たのでした。昔から人類にとって天体は、身近なものでしたし時を計ったり、方角を示したり、航海する時の位置を確かめるのにも必要なものでした。また、紀元前4世紀のアリストテレスから16世紀のコペルニクスやガリレオなどの地動説が生まれたのも天体を観察していたからでした。

 東方の博士たちの来訪にヘロデはうろたえ祭司長や律法学者たちを集めて、「メシアはどこに生まれるのか」と問います。祭司長や律法学者は、宗教の専門家であり聖書にも精通していました。ですから、ユダヤ人たちが待ち望んでいた【メシア】がどこに生まれるのかを知っていたのです。彼らは、「ユダヤのベツレヘムです。預言者が次のように書き記しています。『ユダの地ベツレヘムよ、……お前から一人の統治者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである』」と答えます。そしてその【メシア】こそがイエス様であり、主の使いでがヨセフに告げた「その子は自分の民を罪から救う」方なのでした。

 ヘロデは、博士たちをひそかに呼び寄せて、星が現れた時期を確かめます。たぶん、ヘロデは博士が伝えた【星が現れた時期】と、祭司長や律法学者たちの説明によって【メシア】が生まれたことを確信したのでしょう。ひそかに博士たちを呼び寄せたのは、自分の王座が危うくなることを気にし皆に気付かせなかったのでしょうし、この時点で幼子のイエス様を殺そうと企んでいたのかもしれません。ヘロデは、博士たちに「行って、その幼子を丹念に探し、……わたしも拝みに行きたいから」と言います。不思議なものでみことばは、ヘロデの口を使って「【メシア】は【丹念】に探さなければならない」ということを示しています。これは、私たちにとっても「イエス様を見つけるために」は、同じように【丹念】さが必要になってくることを示しているのかもしれません。

 博士たちは、ヘロデに言われたように【ベツレヘム】へ出かけます。すると、彼らがかつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、幼子のいる場所まで来て止まります。ちなみに、「ベツレヘム」とは、ヘブライ語で【パンの家】という意味のようです。最後の晩餐の時に「パンを取り、……これはわたしの体である。」(マタイ26・26)とイエス様が言われたのと、イエス様が【ベツレヘム】でお生まれになられたというのは、何か深い意味があるのかもしれません。

 博士たちは、一度は見失った【星】に気づきその導きに従ってイエス様の所に来ることができたのです。私たちにとっての【星】は、どのような意味があるのでしょうか。私たちの周りには、小さな星の輝きを探すことよりも、楽しいことや興味を惹くことがたくさんあり、それらのものは私たちが【星】を探すことを邪魔してしまいます。ですから、私たちは【その星】を【丹念】に探し続け、私たちがイエス様の所に導いてくれるよう心を澄ましていなければならないのではないでしょうか。

 博士たちは、家に入って幼子が母マリアとともにおられるのを見ます。やっと、イエス様に会うことができた彼らには、イエス様の微笑みがどのように映ったのでしょう。私たちは、画家が描いた【聖母子】を見る時とても心が和み、聖母の優しい眼差し、イエス様がマリア様に身を委ねているお姿に清らさを感じるのではないでしょうか。いま一度、私たちが博士たちと一緒にイエス様を礼拝することを思い描くこともいいのかもしれません。

 博士たちは、イエス様を礼拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げます。イザヤ書には「黄金と乳香を携え、主に対する賛美を公に告げる」(イザヤ60・6)とあります。博士たちは、イエス様を礼拝するとともに【公に告げる】という大切な使命を果たすことができたのではいないでしょうか。彼らは、それぞれの国に帰ってイエス様と出会ったことを伝えたことでしょう。私たちは、【星】を見失うことなくイエス様の所に導かれることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

  3. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

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