1月20日に記念される聖セバスチアノは、3世紀あるいは4世紀初めにローマで殉教した聖人です。セバスチアノについては、史実として確実なことはほとんどわかっていません。聖アンブロジオ司教は、セバスチアノがミラノの出身で、後にローマに移り住んだと述べています。しかし、その理由については述べていません。
伝承によれば、270年ごろミラノからローマに移り住んだセバスチアノは、近衛兵として皇帝に重用されました。そのころ、ディオクレツィアヌス帝によるキリスト教迫害が起きましたが、セバスチアノは獄中のキリスト者を助け、殺害された信徒を手厚く埋葬するだけでなく、多くの兵士や貴族をキリスト教へと導きました。こうした働きのために、教皇カイウスはセバスチアノを「教会の擁護者」と宣言しました。
しかし、殉教者たちを埋葬しているのを見とがめられたセバスチアノは、捕らえられました。セバスチアノに裏切られたと感じたディオクレツィアヌス帝は、彼を弓矢で処刑するよう定めました。無数の矢で射抜かれ、処刑場に放置されたセバスチアノは、しかし、奇跡的に一命をとりとめました。それにもかかわらず、彼は身を隠すことをせず、かえって皇帝の前でみずからの信仰を宣言し、キリスト者迫害の非を訴えたうえで、死刑に処せられました。セバスチアノの遺体は、埋葬することを許されずに捨てられましたが、彼自身が他のキリスト者の夢の中に現れ、アッピア街道沿いの墓に葬られたとされています。
この墓には使徒聖ペトロと聖パウロの遺骨も埋葬されていましたが、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、それぞれの殉教地に遺骨を戻してからは、ここに両使徒を記念する教会が建てられました。そして、この教会を訪れる巡礼者たちが、同じ墓地にあるセバスチアノの墓も訪れたことから、セバスチアノへの信心は盛んになっていきました。7世紀には、セバスチアノの取り次ぎによってローマで流行したペストが収まったとされたことによって、その信心はさらに広がっていきました。また、墓地にあった教会自体も「聖セバスチアノ大聖堂」と呼ばれるようになりました。
聖セバスチアノを荘厳に記念するミサの中では、マタイ福音書10章28-33節が読まれます。そこではまず、人間を恐れてはならないという教え、その人がどんなに強大な力を持つ人であっても恐れてはならないというイエスの教えが記されています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)。しかし、このような状況に置かれてもなお恐れないのは容易なことではありません。わたしたちに危害が及び、わたしたちの命が危機にさらされるとき、わたしたちは本能的に恐れを感じるのであって、それを抑え込むことはできないからです。だから、イエスはすぐに続けて言われます。「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(同)。たしかに、自分に危害を加える人は恐ろしさを感じるでしょう。しかし、どんなに強大な力を持つ者であっても、その人も父である神のみ手のうちにあるのです。そして、父である神は、わたしたち一人ひとりをいつも心にとめてくださっています。だから、恐ろしくても、恐れる必要はないのです。父である神がわたしを常に見守ってくださっているという確信だけが、わたしたちを恐れから解放してくれるのです。ただし、このことを頭で理解しているだけでは不十分で、実感として常に生き生きと感じられるまで、それをあたため、はぐくんでいなければならないのです。そうでなければ、いざというときに、「人々の前で自分をわたし(=イエス)の仲間であると言い表す」(32節)ことはできず、「人々の前でわたし(=イエス)を知らないと言」(33節)ってしまうことでしょう。
聖セバスチアノをはじめとする殉教者たちが、迫害され、死の責め苦の中にあって、みずから耐え忍び、他の人にもそうするよう招くことができたのは、どんなことにも折れることのないような強靭な意志を持っていたからではありません。彼らも、わたしたちと同じ弱い人間の一人であり、肉体的な責め苦はやはり恐ろしかったはずなのです。しかし、彼らは父である神がすべてに勝って力ある方であることを確信していました。そして、この神がわたしたちを見捨てることなく、常に守り導いてくださっていることを感じ取り、神との間に愛と信頼のかかわりをはぐくんでいました。だからこそ、彼らは恐ろしさの中にあっても、耐え抜くことができたのです。
今、わたしたちの多くは、信仰のゆえに死の危険にさらされるような状態には置かれていません。しかし、日常的にさまざまな不安と恐れを感じながら生きています。教会の中でも、個人的にも、さまざまな現実的問題にわたしたちは直面し、これからどうなってしまうのか不安に感じています。しかし、「二羽の雀……の一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)のであり、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(30節)とすれば、どんなに悪の力が勝っているように見えるときでも、すべては父である神のもとにあるはずであり、すべては神の計画に従っているはずなのです。わたしたちが、具体的な不安や恐れに対してこそ、父である神への信頼を感じることができるほどに、神とのかかわりをはぐくむことができるよう、聖セバスチアノの取り次ぎを願いたいと思います。