今日は、1月17日に祝われる聖アントニオ(エジプトの)修道院長を取り上げたいと思います。「聖アントニオ」というと、どちらかと言えば、「パドヴァのアントニオ」のほうが有名ですが、このエジプトのアントニオも重要な聖人の一人で、「修道生活の父」とも呼ばれます。
アントニオは3世紀から4世紀にかけて生きました。裕福な家庭に生まれ、若くして両親を亡くし、莫大な財産を相続しました。しかし、ある時、教会でマタイ福音書19章16—22節の朗読を耳にしました。そして、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)というイエスの招きが、まさに自分に向けられていると感じました。そこで、その言葉のとおりに、全財産を売って、貧しい人々に施し、エジプトの砂漠で隠遁生活を始めたのです。
アントニオの歩みは決して平坦なものではありませんでした。隠遁生活自体が辛く厳しいものであっただけでなく、それは自分の心に潜むさまざまな欲望や誘惑との戦いでもあったからです。
しかし、アントニオは「すべてを捨てて、キリストに従うこと」のすばらしさ、それによって与えられる永遠の命の価値をよく理解し、感じ取っていました。だから、この歩みを続けることができたのです。修道生活は、厳しい禁欲や修行を目的としたものではありません。それは、キリストに従うことのすばらしさに完全に魅了されてしまうことなのです。だから、すべてを捨てるのです。もちろん、人間としての苦しみがなくなるわけではありませんが、それよりもキリストに従うことの喜びのほうが大きいため、たとえ苦しい生活であっても、この生活を続けないではいられないのです。こうして、なにものにも勝る永遠の命のすばらしさを、自らの生き方を通して証しするのです。
さて、アントニオが修道生活を始めるきっかけとなった福音の箇所を読んでみましょう。このエピソードは、金持ちの青年がイエスに対して行なった、「永遠の命を得るために何をすればよいか」という問いかけから始まります。イエスは、「掟を守りなさい」と答えます。青年は、どの掟を守るべきか尋ねます。すると、イエスは、私たちが十戒と呼んでいる掟のいくつか、すなわち「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」という掟を列挙します。しかし、青年はこれらの掟をすべて守ってきたと宣言します。その上で、さらに尋ねるのです。「まだ何か欠けているでしょうか」と。
イエスは、「もし完全になりたいのなら」と切り出します。この言葉は、「欠けていることはないが、さらに完全を求めたければ」という意味に解釈されたこともありました。つまり、「永遠の命を得るためには、あなたはもう十分だが、さらに上を目指したいのならば、必ずしもすべての人に必要なことではないが……」という意味です。しかし、青年が立ち去った後に、イエスが「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言っているので(23節)、この青年には天の国に入るために、すなわち永遠の命を得るために、何か欠けていることがあったと解釈するほうが自然でしょう。
しかし、それではどうなるのでしょうか? イエス自らが、永遠の命を得るためには掟を守ることだと言ったのではないでしょうか? そして、青年はイエスが列挙した掟をすべて守ってきたのではないでしょうか? だとすれば、青年は永遠の命を得ることができるのではないでしょうか? それなのに、イエスはこれではまだ完全でない、欠けていることがあると言うのです。
答えは一つしかないように思います。青年が「守ってきた」と宣言する掟の守り方は、イエスの目から見れば、まだ掟を守っているとは言えないということです。
そもそも、マタイ福音書は律法(=掟)を守ることの大切さを非常に強調します。しかし、それには「律法……を完成するために来た」(5・17)イエスに聞き従う必要があります。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は……と命じられて」(5・21、27、31、33、38、43)きましたが、イエスは「しかし、わたしは言っておく」(5・22、28、32、34、39、44)と述べ、真の意味で律法を守るためには、字義どおりに守っていればよいのではなく、イエスの言葉に従って、その真髄を生きなければならないことを教えるのです。
金持ちの青年に対して、イエスは言います。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。……それから、わたしに従いなさい」と(21節)。イエスは、すでに列挙した掟を守るということが、いったい何を意味するのか教えるのです。青年は、単に字義どおり掟を守ればよいという考え方から、永遠の命を得るために、このイエスの言葉に聞き従う生き方へと、またこれからもイエスの言葉をとおして掟を守るために、イエスに従い続ける生き方へと招かれるのです。
ところで、この箇所を、マルコ福音書、ルカ福音書の並行箇所(マルコ10・17—22、ルカ18・18—23)と比べてみると、面白い点に気づかされます。それは、イエスが守るように列挙した掟の中に、マタイだけが「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を加えているということです。マルコもルカも、あえてこの掟を記していません。愛の掟は律法の中で第一の掟であることをイエス自身が教えていますから(マルコ12・28—34、ルカ10・25— 28)、この第一の掟を守っているのに、永遠の命を得ることができなくなるという印象を、マルコやルカは与えたくなかったのでしょうか。
しかし、マタイ福音書でも、イエスは愛の掟が律法の中で最も重要であることを教えています(マタイ22・34—40)。いや、むしろ愛の掟が律法全体、ひいては聖書全体の要約であるとさえ言うのです。「律法全体と預言者は、この二つの掟(=神への愛と隣人への愛)に基づいている」(22・40)。
マタイの言いたいことは明らかです。たとえ最高の掟である愛の掟であったとしても、キリストに聞き従うのでなければ、掟を守ったことにはならず、永遠の命を得ることにはならないということです。
金持ちの青年は、イエスの招きを受け入れることができませんでした。イエスに聞き従うよりも、自分の財産を優先させてしまったのです。一方、聖アントニオはこの招きを受け入れました。すべてを捨てて、イエスに従うことにより、天に富を積み、永遠の命を得ることになったのです。
今も、多くの人たちがアントニオに続いて修道生活の召命を受け入れています。彼らは、身をもって、永遠の命を得るとはどういうことなのかを、すべての人に証しし続けているのです。