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これってどんな種?

ほんの小さな回心という種 待降節第3主日(ルカ3・10〜18)

 私たちは「かいしん」と聞くとき、「改心」「回心」という漢字が頭に浮かぶのではないでしょうか。「改心」は、なんだか自分の力で「心を改める」という感じがして「よし、何とか頑張るぞ!」と気合を込めて改心するというイメージを受けます。一方「回心」は、文字通り「心を回す」のですから、「ほんの少しだけ心を回してみる」という緩やかなイメージを持つのではないでしょうか。そして、【ほんの少し】おん父の方に「心を向ける」感覚に気付いたとき、さらにもう一度【ほんの少し】おん父の方に「心を向ける」ことができるのだと思います。もちろん、こちらの【回心】は自分の力だけではなく、【聖霊の働きと共に】しなければうまくおん父の方に向くことはできません。

 きょうのみことばは、洗礼者ヨハネの所に集まった群衆が、回心するきっかけに気付いた場面と、本当のメシアは、後から来られるということを洗礼者ヨハネが伝える場面です。きょうのみことばの少し前の箇所で洗礼者ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ。……だから、善い実を結ばない木はみな切り倒され、火に投げ入れられる」(ルカ3・8〜9)と群衆に伝えています。これを聞いた彼らは、このような状態でいいのかと自分の生活を不安になったのでしょう。それで「では、どうすればよいのでしょうか」と洗礼者ヨハネに質問をします。

 洗礼者ヨハネは彼らの質問に「下着を2枚持っている者は、持っていない者に分け与えなさい。食べ物を持っている者もまた、同じようにしなさい」と言われます。群衆は、この洗礼者ヨハネの言葉を聞いて「えっ。それだけでいいの」と思ったのではないでしょうか。彼らは、もっと大変な断食をしたり、苦行をしたりしなければならないと思っていたのかもしれません。しかし、洗礼者ヨハネの答えは、日常の中の【ほんの小さな】分かち合いでよかったのです。

 私たちは、この洗礼者ヨハネの答えを聞いたとしたら「これなら、できるかもしれない」と思うのではないでしょうか。しかし、この日常の【ほんの小さな】分かち合いを続けるというと難しさが出てくるかもしれません。そこに聖霊の働きが必要になってくるのです。私たちは、時には「ちょっと、これを分けることができない。これを分けたら自分が困ってしまう」とエゴが出てしまうことが起こるかもしれません。私たちは、自分が富んでいるときには分けることができるかもしれませんが、これを分けたら自分自身も辛くなるというときは、出し惜しみをするかもしれません。そんな時、『やもめの献金』(ルカ21・1〜4、マルコ12・44)の箇所を思い出すといいかもしません。

 また、残念なことに自分が2枚の下着を持っていること、分け与えられる食べ物を持っているということに気づかない人もいるかもしれません。今の生活に満足している人、あるいは、自分の生活に固執している人は、それを人に分かち合うということに気がつかないことがあるのではないでしょうか。この分け与えるというのは、物質的なものだけではなく、優しい声かけであったり、時間であったり、ほんの小さな【優しさ】でいいのです。まず、「与える勇気の一歩」を祈り願うことができたらいいですね。

 さて、今度は徴税人たちも洗礼者ヨハネの所に洗礼を受けに来て同じように「先生、わたしたちはどうすればよいのでしょうか」と尋ねます。先の群衆はユダヤ人として当たり前の生活をしている人たちでした。しかし、徴税人は周りの人々から罪人と言われていて、「自分たちはもっと大変なことをしなければ救われない」と思ったのかもしれません。しかし、洗礼者ヨハネは「規定以上に取り立ててはならない」とだけ答えます。それを聞いた兵士は「わたしたちも、どうすればよいのでしょう」と尋ねます。兵士も徴税人同様ユダヤ人から罪人と言われていた人たちでした。ここで注意することは「わたしたち【も】どうすれば」(フランシスコ会訳)と言っているところです。きっと、洗礼者ヨハネの言葉は同じ罪人と言われている彼らにとって本当に救いとなったことでしょう。

 私たちも彼らのように「私はどうすればよいのですか」と質問してはいかがでしょうか。きっと私の中に響いて来るイエス様の「声」が聞こえて来るのではないでしょうか。私たちは、その「声」を聖霊の助けを借りて注実に行うことができたらいいですね。

 さて、人々は洗礼者ヨハネのことを来たるべき「メシア」だと思っていました。しかし、洗礼者ヨハネは、「わたしよりも力のある方が来られる。……その方は、聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる。」と言われます。ヨハネの洗礼は、「罪の赦しへ導く悔い改めの洗礼」(ルカ3・3)でした。しかし、イエス様の洗礼はこれから信仰生活を送るために必要な【聖霊と火】の助け、力が含まれ、勇気や希望、そして何よりも【愛】があり、同時に【火】の暖かさや明るさというお恵みが備わっている【洗礼】なのではないでしょうか。

 私たちは、謙遜な気持ちで「私はどうすればよいのですか」と尋ねながら、イエス様をお迎えするために【ほんの小さな回心】を続けることができるようになればいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  2. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

  3. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

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