今日の箇所を読むたびに、イエスにも反抗期というものがあったのかなあと想像したりします。パウロが「キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました」(フィリ2・6~7)ということばが思い浮かんできます。
イエスの両親は毎年、過越祭にはエルサレムに訪れていたと言います。イエスが12歳になった時も、この習慣を両親は守っていました。恒例の祭りが終わり、帰途に着くことになりました。本来なら一家そろって帰るのが一般的な光景でしょうが、イエスが道連れから離れてしまいます。12歳と言えば、ちょうど反抗期でしょうから、両親と一緒に帰りたくなかったのでしょう。それはこの世代になれば、ごく自然かもしれません。私もそうでしたから…。イエスもまた、そうした人間的な面が表れた時で、親しみを覚えます。両親はイエスを探すのに必死です。一日の旅を終えた後ですので、けっこうな距離を歩いたことでしょう。残念ながらその日は見つかりませんでした。両親にとってはどれほど心配したことでしょう。翌日も探し回りましたが、相変わらず見つかりません。三日目になって神殿の境内で学者たちと問答しているイエスを見つけます。両親の立場からすれば、ほっとしたことでしょう。
母マリアの「あなたは、どうしてこんなことをしたのですか」(ルカ2・48)は尋常でない雰囲気が漂っています。何となくキレそうな言葉ではないでしょうか。イエスも「わたしは父の家にいなければならないことを、ご存じなかったのですか」(ルカ2・49)と答え、両親には意味が十分に伝わっていません。
私たちの家庭でも、十分に意志が伝わらない場合もあります。イエスのこうした家庭の中でも、すれ違いに似たようなものがあると、なんだかほっとするような雰囲気を感じます。