序)
1549年8月15日に来日。日本での宣教。私の田舎の教会(西木場教会はフランシスコ・ザビエルにささげられている。
生涯
1506年4月7日、バスク人のナバラ王国、ザビエル城で生まれた。両親ともに熱心なカトリック信徒であった。ザビエルは5人の兄弟姉妹(兄二人、姉二人)の末っ子だった。
1524年、18歳になったザビエルは司祭を志、翌年、パリ大学に進学した。神学生となったザビエルはまず聖バルバラ学院でラテン語を学び、1526年に哲学を学んだ。学院同室生としてイグナチオ・ロヨラと出会った。ザビエルは人格と学才から出世街道を進んでいた。
当時、宗教改革の荒波にもまれ、カトリック教会は揺れていた。イグナチオは教会の要求にしたがって「より大きい神のみ栄えのため」に働く人を集め、新しい修道会を創立しようとしていた。
1533年、27歳となっていたザビエルは、イグナチオと同志とともに、パリのモンマルトルの殉教者小聖堂で、清貧、貞潔の誓願を立てた。その後、パリ大学で神学を学び、1537年、ヴェネティアでイグナチオと再会し、同年(1537年)6月24日に、イグナチオと共に司祭に叙階された。二年後に、「イエズス会」が教皇パウロ三世の認可で誕生した。
1541年、35歳のザビエルは、ポルトガル国王ジョアン三世の要請とイグナチオの命令によって、また教皇使節として同年4月7日、リスボンからインドと東アジアの宣教に旅立った。
1542年、インドのゴアを中心に、インド沿岸、マラッカおよびモルッカ諸島を巡り、5年間、宣教に従事した。
1547年12月、ザビエルはマラッカで亡命していた日本人のアンジロウに出会い、日本の存在を知り、日本での宣教を思い立った。彼に洗礼を授け(洗礼名はパウロ)、1549年8月15日、彼の故郷・鹿児島に着いた。
薩摩の領主・島津貴久(たかひさ)は庶民とともにザビエルを迎えた。ザビエルは家老やアンジロウの家族など、約100人に洗礼を授けた。
ところが貴久は外国貿易による利益が目当てで、それがはずれたこと、また彼の不道徳を非難され、領内での宣教を禁止した。そこでザビエルはアンジロウに鹿児島の司牧を任せた。
平戸へ行き、領主の松浦隆信の歓迎を受けた。彼の家臣・木村の家に宿泊し、フェルナンデス修道士とともに宣教し、2か付きで100人に洗礼を授け、木村家の家族は全員洗礼を受けた。10月末、トーレス神父を平戸に残し、フェルナンデス修道士とベルナルドを伴って博多に向かい、さらに11月の初めに山口に到着した。
中国地方の最大実力者、大内義隆の領内で、人通りの多い辻で毎日二階、教えを宣べた。成果は乏しかった。ザビエル一行は山口に一か月余り滞在し、12月に堺へと向かった。豪商だった日比屋谷家を目指し、親切なもてなしを受けた。やがてこの息子日比屋了珪(りょうけい)は1564年に洗礼を受け、のちに堺の教会の中心人物となった。また日比屋の世話でザビエル一行は都を目指した。1551年1月15日、一行は京都に到着した。一行は小西隆佐(りゅうさ)の家で暖かく迎え入れられ、間もなく一家は洗礼を受けた。
当時の京都は荒廃し、疫病や暴風雨の被害を受けていた。将軍足利義輝(よしてる)は家臣の反乱で栃木に難を逃れ、将軍に会うことができなかった。またザビエルは比叡山の僧院を訪問したが、あっさりと断られた。ザビエルは天皇との謁見を試みたが、これもできなかった。
彼らは11日間、京都にとどまったが、日本の実権を握っているのは天皇でも将軍でもなく、地方の大名たちであった。
1551年初頭、平戸へ帰り、準備を整え、山口の大名のもとへ行くことにした。ザビエル一行は、山口での本格的な宣教を開始した。
ザビエルはインド特使の使節として盛装し、フェルナンデス修道士などを伴って再び山口へ向かい、大内義隆に会うことにした。ザビエルはゴア司教の信任状を携え、時計、鉄砲、学期、めがね、洋酒などを1551年4月下旬、大内義隆に差し出した。大内候は機嫌をよくし、宣教を開始した。ザビエルはフェルナンデス修道士と共に、一日二回、説教した。たくさんの人が訪れた。ザビエルの山口滞在は5か月に過ぎなかったが、それでも約500人くらいが洗礼を受けた。
1551年9月に大分港に入港し、大分での宣教を開始した。大分では22歳だった大友義鎮(よししげ)は大歓迎を受けた。
1552年12月3日、上川島(サンチェン)で死去。46歳だった。