アジア大陸の保護の聖人であると同時に、日本宣教の保護者の聖人である聖フランシスコ・ザビエルは、1549年、日本にはじめてキリストの福音を伝えた人々の一人です。教会は、この聖人を12月3日に祝います。
フランシスコ・ザビエルは、1506年4月7日、ナバッラ王国(現在のスペイン・バスク地方)のザビエル城で生まれます。フランシスコは、ナバッラ王国内で初等教育を受けた後、大学で勉強を続けるためにパリに赴きます。ここで、後にイエズス会を創始するロヨラのイグナチオ、そしてイエズス会の最初の仲間となるピエール・ファーブルらと出会いました。当初、フランシスコはみずからの立身出世を目指しますが、次第にイグナチオの霊的感化を受け、1534年、モンマルトルの丘で、イグナチオらとともに聖地巡礼をおこなうという誓願と使徒的奉献の誓願を宣立します。その後、彼らは聖地に向かうことを願って、ベネチアまで至ります。しかし、トルコとの戦争が激化する中で、出帆することができませんでした。そんな中でフランシスコは、1537年6月24日に司祭に叙階され、ヴィチェンツァやボローニャで活動します。結局、一行は、聖地に向かうことができず、教皇への奉仕のためにローマに向かいます。そして、1539年6月、ローマでイエズス会が創立されるのです。
フランシスコは、しばらくの間、イグナチオとともにローマで活動しますが、インド南東部の宣教司牧がイエズス会に任されたため、彼は教皇特使としてインドに向かいます。1541年4月7日にリスボンを出港し、途中、モザンビークで半年間の滞在を余儀なくされるなど、厳しい船旅を経て、ついに1542年5月6日にインドのゴアに到着するのです。ここから、フランシスコの精力的な宣教活動が始まります。インド南部やマラッカ、周辺の島々をめぐり、現地の言葉をも学びながら、福音を告げ知らせました。彼は、あまりに多くの人に洗礼を授けるために腕が疲れて上がらなくなるほどであると、手紙に書き記しています。
そして1547年、フランシスコは、日本人ヤジロウと出会うのです。彼から日本と日本人について話を聞くうちに、フランシスコは日本への宣教を決意します。コスメ・デ・トーレス、ジョアン・フェルナンデス、ヤジロウらとともに、フランシスコは1549年8月15日に鹿児島に到着します。鹿児島における宣教の許可を得たフランシスコら一行にとって、最大の問題は言語の違いでした。そこで、フランシスコは、苦労をしながらも、まず神の十戒を日本語で学ぶことから始めます。その効果は絶大なものでした。フランシスコが日本人について書き送った手紙は興奮に満ちています。「わたしたちが話をした人々は、これまで出会った人々の中で最も優れていて、異教徒たちの中で日本人をしのぐ民族をほかに見つけるのは不可能であると思います。彼らは粗食で、多くが読み書きをこなし、妻は一人だけもち、盗人は少なく、神のことについて聞くのを好みます」。
しかし、次第に、仏教側の反対が強くなったため、フランシスコは、全国での宣教許可を天皇から得ようと考え、京都に向かいます。平戸と山口を通って、京都に着きますが、京都では天皇との面会すらかないませんでした。そこで、フランシスコは山口に戻り、熱心な宣教活動をおこないます。その後、大分などでも宣教をおこない、教会の基礎が固まったのを見たフランシスコは、今度は中国への宣教を決意します。そして、1551年に日本の教会をコスメ・デ・トーレスらにゆだね、自分はいったんゴアに戻るのです。
ところが、中国への入国は簡単には実現しません。かんばしい協力も得られずに出発するものの、広東の港を前にして、フランシスコは高熱に見舞われます。結局、中国の宣教の思いはかないませんでした。1552年12月3日、上川島でフランシスコは天の御父のもとに帰るのです。
その2年後、フランシスコの遺体はマラッカを経てインドのゴアに運ばれました。また、多くの人々に洗礼を授けた彼の右腕は、1615年にローマに運ばれ、ジェズ教会に納められました。そして、1622年に、フランシスコはイグナチオとともに聖人の列に加えられました。
聖フランシスコ・ザビエル司祭の祝日のミサには、コリントの信徒への手紙一9・16-19,22-23とマルコ福音書16・15-20が朗読されます。今回は福音ではなく、第一朗読のコリントの信徒への手紙を取り上げることにします。
この個所は、ここだけを読むと、パウロ自身が使徒であることについて弁明し、自分にとって福音宣教がどのようなものであるかを述べているように思われます。特に、「使徒としての権利」、その中でも、福音を宣べ伝える使徒が兄弟たちから生活の糧を受けることができるという権利について長い議論が展開されています(3-15節)。おそらく、パウロがこの権利を行使せずに、みずからの手ではたらいて生活の糧を得ているという事実を論拠にして、一部の反対者たちが「パウロは使徒としての権利を持っていない、パウロは使徒ではないからだ」という主張をしていたのでしょう。
しかし、9章のパウロの教えは手紙の流れからすると、かなり唐突な印象を受けます。8章と10章では、ともに偶像に備えられた肉の問題を論じていて、9章がこれを分断しているように思われるのです。8章と10章で述べられているのは、偶像に供えられた肉を食べていいかどうかという問題です。パウロは、唯一の神以外は存在しないのだから、偶像に供えられた肉は、単なる「物」の前に置かれた肉に変わりはないこと、だから、それをわきまえてさえいれば、偶像に供えられた肉を食べることには何の問題もないことを教えます。しかし、それで議論は終わらないのです。パウロは、ともに生きている人々のことを問題にします。もしこうしたことを理解することができない兄弟がいて、その人がつまずいてしまうとすれば、たとえゆるされている行為であっても、この兄弟のために当然それをおこなわないはずではないか。これが、パウロにとって、より重要な点なのです。キリスト者の行動の基準、それは正しいかどうか、ゆるされているかどうか、おこなう権利を持っているかどうかということではありません。キリスト者の行動の基準は、愛であり、兄弟の益になるかどうか、造り上げるかどうかということです(8・1,12、10・23-24,32-33)。だから、パウロは「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にし」ないのです(8・13)。
この視点で9章を読むと、8章や10章とのつながりが見えてきます。パウロは9・1で、最初に「わたしは自由な者ではないか」と問いかけます。つまり、キリスト者として自由な者であり、偶像に供えられた肉を食べる自由、権利があることと結びつけているのです。しかし、パウロはこの権利、自由を用いようとしません(9・12)。「だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になり」ます(19節)。それは、このように福音を告げ知らせることによって、「何とかして何人でも救うためです」(22節)。
パウロは、使徒としての務めが神からのものであることを確信しているので、自分が使徒であることについて力強く弁明します。しかし、パウロの言いたいことは、別のところにあります。パウロは、使徒としての権利を持っているかどうかを重視する反対者たちの姿勢そのものが間違っているということを伝えたいのです。パウロにとっての行動の基準は、自分に権利があるかどうかではありません。それが福音のため、そして人々を造り上げる(=救いへと成長させる)ことにつながるかということなのです。
では、パウロが使徒としての権利を用いず、みずからの手ではたらいて生活の糧を得ることが、どうして福音のためになるのでしょうか。それは、コリントの教会の中に奴隷の身分の人たちがたくさんいたことと関係があるようです。当時のギリシア・ローマ世界では、肉体労働は奴隷の仕事であって、自由市民は肉体労働をしませんでした。港湾都市であったコリントには、たくさんの肉体労働者=奴隷が住んでいたことでしょう。パウロにとって、みずからの手ではたらくことは、奴隷の立場に身を置き、彼らとともにあることを意味しました。まさに、パウロは「自由な者ですが、すべての人の奴隷にな」ったのです(9・19)。奴隷として過酷な労働をする人々とともにあるために、パウロは使徒としての権利を放棄し、みずからの手ではたらいたのです。それは、まさに弱い未熟なキリスト者のために、肉を食べる権利を放棄する姿勢と同じ姿勢でした。
権利を持っているからそれを行使するという視点ではなく、人々の救いのためになるから当然のこととして権利を行使しないという視点、それがパウロの視点です。フランシスコ・ザビエルを突き動かしていたのも、この視点です。フランシスコは、貴族として当然の権利を持っていましたし、インドや日本でも教皇特使としてのさまざまな権利を持っていました。しかし、彼の視点はそれを行使できるかどうかという視点ではなく、やはり福音の宣教と人々の救いのためにどうすればよいかという視点でした。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(9・23)。
パウロやフランシスコ・ザビエルの教えと模範は、わたしたちにも鋭い問いを投げかけているように思います。教会の中でも、しばしば「わたしは間違っていない」、「わたしは許可をもらった」、「わたしには権利がある」といった主張を耳にすることがあります。しかし、それはキリスト者にとっての最終的な基準ではないはずです。わたしたちの基準、それは福音が告げ知らされるため、一人でも多くの人が救いにあずかるためということです。そして、そのためであれば、たとえ、自分に権利があっても、ゆるされていても、正当であっても、それを喜んで放棄するはずなのです。このパウロやフランシスコ・ザビエルの視点を、今一度わたしたちの生き方の根底にすえたいと思います。