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カトリック入門

「カトリック入門」 第56回 聖トマス・アクィナス【動画で学ぶ】

 福岡のサンスルピス大神学院にいた時、哲学を学ぶとともに、通信教育で慶応大学の科目を学び、卒業論文のテーマは、「トマス・アクィナスの心身論-デカルトとの比較において-」でした。論文の指導教授は有働先生でした。トマス・アクィナスもデカルトも心身合一という言葉を使っているが、どのような違いがあるかが研究テーマでした。この論文作成のために、まだ翻訳されていなかった「対異教徒論」「アリストテレス『霊魂論』の注解」などを読んで、論文の中に引用した記憶があります。トマス・アクィナスは、学生時代の偉大な先生のような感じです。

1)トマス・アクィナスの生涯
 彼は1225年頃、ローマとナポリの中間くらいにあるロッカ・セッカで、貴族アクィノ家の四男五女の末っ子として生まれた。
 5歳の時からベネディクト会のモンテ・カッシーノの修道院に預けられて、学問、徳など、厳しく教育された。聖母と聖体に対する信心があつかったといわれる。
 その後、ナポリ大学に進学し、祈りと勉学に励んだ。時間があれば、近くのドミニコ会の修道院の聖堂で祈ったり、修道士たちと交流した。やがて司祭への召命を感じて「ドミニコ会」に入会しようとしたが、両親は反対であった。
 1244年、トマスはナポリのドミニコ会に入会。母が自分を家に連れ戻そうとしているのを知り、ひそかにナポリを離れ、パリへの旅行の途上、二人の兄たちに捕らえられ、ロッカ・セッカ城に連れ戻された。独房での生活が始まった。
 1245年、監禁を解かれ、ナポリに戻った後、パリへ行き、ドミニコ会員になるために修練期を過ごす。トマスはドイツのケルン大学で聖アルベルトのもとで学び、パリ大学に移った。その後、哲学と神学の研究を積み重ね、時間があれば聖体の前で黙想したり祈ったりし、学識、徳がいっそう広くなっていった。
 1250年ごろ、ケルンで司祭に叙階された後、パリで著作活動を開始した。1256年、パリ大学の神学部教授として招かれ、弁舌さわやかな名教授として教え、そのかたわら説教や著述にも携わった。ただ教授たちの反対により、教授としての正式な活動はできなかった。それでも、アリストテレスやアウグスチヌスの理論を総合した哲学、神学体系は、大きな反響を呼び起こした。こうして教えを求める人が日増しに増えていった。1257年、ボナベントゥーラと共に、教授団に受け入れられた。時には、フランス王、ルイもトマスを顧問として信任し、重要な問題には、意見を聞いた。
 1259年、パリ大学教授を退官し、イタリアへもどって著作活動を行った。
 1260年、ドミニコ会ローマ管区の管区顧問となった。
 1265年、ローマのサンタ・サビーナ修道院に設立されたドミニコ会神学大学の指導を委ねられた。有名な「神学大全」を書き始め、9年目に完成した。
 教皇ウルバノ四世はトマスの博学を聞き、ミサ典礼文、聖歌、教会の祈りを編集させた。今でも親しまれている作品として、「アドロ・テ・デヴォテ」「ラウダ・シオン・サルヴァトーレム」「パンジェ・リングア」の最後の部分「タントゥム・エルゴ」などの歌詞は、トマスの作品。
 1269年、再度パリ大学神学部教授となり、修道会を攻撃する勢力、アヴェロエス派と論争する。このころ、「神学大全」第二部、「悪について」「霊魂について」、また「形而上学」「自然学」「ニコマコス倫理学」など、アリストテレスの主要著作の注解を書く。
 1272年の春、パリ大学教授を退官し、ナポリに帰る。ナポリでドミニコ会の神学大学を創設し、その指導にあたる。
 1273年12月6日、健康が悪化し、著作活動を停止。
 1274年2月、教皇グレゴリオ10世の要請により、リヨンで開催される公会議に出席するために、ナポリを出発。49歳だったトマスはリヨン公会議に赴く途中、突然病に倒れ、フォッサノーヴァにあるトラピスト修道院で病者の塗油を受け、安らかに息を引き取った。3月7日の早朝。

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