序)ドミニコの名前
ドミニコのラテン語名は、ドミニクスで、「主の見張り人」
教会の教えを用心深く見張り、主の栄光を見張り、主の羊の群れを見張り、主のみ心と命令を見張る人。
ドミニコ会はOrdo Praedicatorisと言われるように、「説教修道会」
ドミニコの生涯
1170年頃、スペインのブルゴスに生まれた。
裕福は貴族の家で、父はフェリクス・グスマン、母は福者ヨハンナ。
三人息子のうち長男のアントニオは教区司祭、次男のマンネスも司祭となり、弟ドミニコが創立したドミニコ会に加わり、後には福者となった。
ドミニコが7歳の時、母方の叔父にあたる司祭のもとに14歳まで預けられ、初等教育を受けた。
1184年(14歳)からバレンシア大聖堂付属学校で哲学、聖書、神学を学んだ。当時、スペインで激しい飢饉が起こり、衣類や所持品を貧しい人に与え、貴重な本も売って、その代金で救護院を設立した。
1194年の24歳の時、司祭に叙階され、スペインのオスマ司教座聖堂参事会の会員となり、司教の顧問役となった。ここで聖アウグスチヌスの会則に従って共同生活を送り、観想生活と勉学に励んだ。やがて豊かな学識が認められ、1201年には31歳で参事会会長に任命された。
1203年、ドミニコはカスティリア王のデンマーク使節団に同行し、途中、フランス南西部ラングドックでアルビ派(別名カタリ派)の異端を目にした。この旅の途中、ローマにも立ち寄り、教皇インノチェンチウス三世に面会して、この異端について報告した。教皇は、「異端は深い学識によって打ち破られる」と。
こうしてドミニコは1206年、南フランスのモンペリエへ行き、宣教を続けた。
また「ロザリオの祈りを勧めなさい。そうすれば大勢の異端者が回心します」と聖母に勧められて、ドミニコは説教の時、必ずロザリオの祈りを勧めたと言われる。
1215年、教皇インノチェンチウス三世の呼びかけで第4回ラテラノ公会議が開催され、ツゥールーズ司教の神学顧問としてローマへ出発し、公会議に参加した。その際、教皇にも謁見し、説教・司牧・教育などをもって宣教する修道会創立の計画を打ち明けたが、賛成は得られず、むしろ、既存の修道会会則に何かを加えたらという意見だった。
ドミニコはアウグスチヌスの観想的な会則に新しい独自の会則、すなわち修道生活に学問研究を組み入れ、宣教という使徒的活動を加えた。ドミニコは新しい会則を携えてローマに向かったが、旅の途中に教皇が亡くなった知らせを受けた。
1216年、次の教皇ホノリウス三世は、教皇庁を一時期、ヴィテルボに移し、そこで会則を提出し、「説教者兄弟会」として認可された。
1217年、ツゥールーズに戻ったドミニコはその年の8月15日、16人の会員をヨーロッパの大都市に派遣した。そこを拠点として学問を磨き、すべての人に福音を宣べ伝える説教家として各地に派遣するためでもあった。特に、ドミニコは会員を立派な説教家、教育家に育てるため、パリ大学に通わせた。こうして会員の研究熱は高まり、会員の中から、聖アルベルト、聖トマス・アクィナスなどが輩出した。会の創立から10年もしないうちに、会員は500名にのぼり、全ヨーロッパに修道院を設置した。
その後、ドミニコはローマへ行き、後に観想修道女会(第二会)となる聖シスト修道院を設立し、現在はドミニコ会総本部となっている聖サビナ修道院に滞在した。この間、教育や福祉に貢献する活動修道女会(第二会)と在俗会(第三会)を創立し、第一、第二、第三会を総称して「ドミニコ会の家族」と呼ばれる。
1220年、イタリアのボローニャで最初の総会を招集し、会員に財産の私有権と使用権を放棄させ、一般の寄付で生活する托鉢修道会を創立した。
1221年、51歳で生涯を閉じた。彼の遺骸は、イタリアのボローニャにある聖ドミニコ大聖堂内の石棺に収められている。