「王」と聞くと、野球選手だった「王貞治」さんのことをついつい思い出してしまいます。
国語辞典で「王」と引くと、「君主。天命を受けて統治するもの。強い支配権を世襲するもの」。さらには「王座を占める者。実力で第一位にある者」「百獣の王」「ホームラン王」などと出てきます。また漢和辞典を調べると「大きな斧を立てた形」と出てきて、「大きい威力あるもの」を示しています。それが転じて「君主」。ギリシア語では、「バジレイウス」が使われ、「威力」「力」を意味しています。一方、ラテン語では「レーゴが使われ、「指揮する」「支配する」「統治する」の意味があり、「君主」「支配者」「統治者」という意味が添えられています。
日本で「王様」という表現は少ない感じがします。むしろ「一国一城の主」、「将軍」「殿様」など。その意味でも、「王」と言われてもピンとこないかもしれません。
さて聖書ではどのように表現されているでしょうか。注油によって聖別された「サウル王」、注油され、神と人との仲介者であった「ダビデ王」、エルサレムの神殿を建て、民の支配者となったソロモン王を考えることができます。つまり、王は聖別され、神と人との仲介者の役割を果たしています。
イエスは「わたしは真理について証しするにために生まれ、またそのために世に来た」(ヨハ18・37)と語り、自分の使命が何かを語ります。イエスにとっての最大の証は十字架上での死です。それは、憐れな姿、軽蔑の対象です。イエスは十二人の弟子たちを呼び、語ります。「第一の者になろうと望む者は、いちばん後の者になり、またみなに仕える者とならなければならない」(マルコ9・35)と。このことは、イエス自身が生涯を通して証したことです。
犯罪人の回心の場面は印象的です。犯罪人の一人が「イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください」と語ると、イエスは「あなたによく言っておく。今日、あなたはわたしとともに楽園にいる」(ルカ23・42~43)と。まさに十字架上のイエスの姿に、「王」の姿を見た瞬間でした。イエスの十字架を見て、王のイメージを抱き、同時にそれを担っていきたいものです。