王であるキリストの祭日は、典礼暦で最後の日曜日に当たり(次の日曜日から待降節が始まります)、世の終わりに王として来られるキリストを祝います。
さて、私は毎年この日を迎えるたびに、救いの神秘を人間の言葉で言い表すことの難しさと危険性を感じさせられます。本来、人間の言葉では救いの神秘を完全に表すことはできません。人間の言葉は神の神秘を表すには、不十分なものなのです。その一方で、言葉は、私たちが神秘へと分け入っていくことを可能にしてくれる「扉」として、すばらしい価値を持っています。問題は、私たちが言葉を使うことによって、それが表す神秘へと分け入る歩みをせずに、その表面的な意味に留まってしまうこと、さらには神秘のほうを言葉の中に閉じ込めてしまう傾きを持っているということです。
「王であるキリスト」と言う時も同じです。確かにキリストは王として万物を支配しておられます。しかし、その「支配」とは決して人の上に君臨し、有無を言わせず従わせることではありません。キリストご自身、世の支配者と比べて「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と弟子たちに教えられ、自らの姿を「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」者として示されます(マコ10・43─45)。また、キリストが王であるということについても、今回取り上げた箇所は、キリストの国がこの世のものではないことをはっきりと記しています(ヨハ18・36)。
にもかかわらず、キリストが王であるという言葉を耳にする時、私たちはどうしてもキリストをこの世の支配者と同じように考えてしまいます。終わりの時が来れば、私たちを苦しめている敵対者をキリストがその偉大な力で打ち負かしてくださる、私たちも勝利者として君臨することができる。しかし、これは弟子たちがキリストをこの世の支配者と同じように考えたのと同じ過った考え方であり、キリストから厳しく咎められた考え方なのです。私たちは、「王であるキリスト」という言葉を用いる時、言葉の表面的な意味を越えて、この言葉が本当に意味していることへと分け入っていくよう招かれています。
そこで、今回は「キリストが王である」とはどういうことなのか、ヨハネ福音書の受難物語を読みながら考えてみることにしましょう。この受難物語の中に記されている出来事だけを追ってみると、それは確かにイエスの敗北の物語です。逮捕され、尋問され、蔑まれ、十字架刑を宣告され、苦しみと罵倒のうちに死んでいくイエス、そこには無惨な敗北者の姿しか見ることができません。しかしながら、ヨハネ福音書はこの出来事をイエスの勝利と栄光の出来事、イエスが王として上げられた出来事として描くのです。イエスは受難の前にすでに「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」(12・31)、「わたしは既に世に勝っている」(16・33)と宣言されました。イエスは逮捕されますが、不思議なことに尋問しているのは、逮捕する側ではなくイエスです(18・4)。しかも、ピラトはイエスを「裁判の席に着かせ」ています(19・13、これは「審判者の席に座らせた」という意味に取れます)。ヨハネ福音書の受難物語を通して描かれるイエスの姿は苦しみもだえる人の姿ではなく、毅然とした態度で、自ら十字架へと向かう者の姿です。そして、その受難物語の中心とも言うべき箇所(18・33─38)で、イエスが王であること、しかもこの世には属さない国の王であることが啓示されるのです。
ここには、御父の望みに従い、人々の救いのために進んで自らの命を捧げる姿こそ、キリストの王としての姿であることが示されています。人々の目には究極の敗北としか映らない十字架の出来事こそがイエスの王としての最高の姿であり、王としての勝利を意味するということを私たちも悟るよう招かれているのです。時として、私たちは「もっとお金があったら、もっと能力があったら、もっと権力があったら、救いのためにより効果のある働きができるのに」と考えてしまいます。しかし、「王であるキリスト」の姿はまったく別のことを私たちに示してくれます。力で支配することではなく、愛をもって奉仕すること、自分の命までも捧げ尽くすこと、人の目にどう映ろうとも、それこそが勝利なのだということです。
「王であるキリスト」の祭日とは、十字架という形で表された愛の奉仕の勝利を記念する日であり、私たちもこのキリストの国に属する者としてふさわしい生き方ができるように決意を新たにする日なのでしょう。