序)聖母マリア
聖母マリアの称号として、神の母、聖母の被昇天、おとめマリアなど。
すでに神の母、聖母の被昇天については取り上げた。
1)無原罪の御宿り(無原罪の聖母マリア)
中世期には、聖母マリアに対する信心が盛んになる。
多くの聖堂がマリアに献げられ、マリア巡礼地が定められ、マリアの出現の話やマリアの取り次ぎによって行われた奇跡が伝えられ、神のもとにあって人々のために力強く取り次いでいるマリアに信者たちの関心が向けられた。マリアの清らかさ、偉大さが強調された。
西方教会では、アウグスチヌス以来、強調されてきた原罪の教えとマリアとの関係が問題となった。
すべての人間がアダムから原罪を受け継ぎ、キリストの贖いの業によってのみ原罪から解放されるという教えに従って、アンセルムスなどは、マリアも原罪を持ったままで母の胎に宿ったが、生まれる前にキリストのゆえに与えられた恩恵によって原罪が取り除かれたという説に立った。これにドン・スコトゥスは反対し、キリストの贖いの結果で原罪が取り除かれたのではなく、原罪の汚れを受けないように初めから守られ、保護されたという説を述べた。
1438年のバーゼル公会議で、マリアの「無原罪の御宿り」の教えが、すべての信者が認めるべきものと宣言したが、その時点では教皇に認められた公会議ではなかった。
1477年、フランシスコ会員であった教皇シクスト四世(在位1471年~1484年)は、教書でマリアの無原罪の御宿りの祝日を承認した。
17世紀になると、マリアの無原罪の教えを宣言することを求める嘆願書が多くの国から届いた。
19世紀になると、マリア信心が高まりを見せ、無原罪の御宿りを教義として宣言するよう教皇に求める嘆願書がさらに増えた。教皇ピオ9世によって教義(1854年12月8日)として宣言された。教義決定にあたり、すべてのカトリック司教に意見を求め、603人中、546人の賛成を得て、決定がなされた。
瀬田のアントニオ神学院で神学を勉強した。住み込みだったが、12月8日の無原罪のお祝いを前に9日間のノベナが行われた。祈りはラテン語で唱えられ、その中に「ドン・スコトゥス」の名前がよく出ていた。彼がこの教義に大きくかかわったためであろう。
*ピオ9世はどんな教皇?
在位は1846年~1878年で、31年7か月
1854年12月8日:無原罪の聖母の教義決定
1858年2月11日:ルルドでの聖母のご出現。この出現は、無原罪の教義を確固たるものにした。
1862年:日本26聖人が列聖される。
1865年3月17日:長崎で信徒発見
1869年12月8日~1870年10月20日:第一バチカン公会議
1870年12月8日:聖ヨセフを普遍教会の保護者とする。
2000年9月3日、ヨハネ・パウロ二世によって列福された。
2)教会の文書の中で
第二バチカン公会議の「教会憲章」の中での「無原罪の聖母マリア」
「聖アンセルモの祈り」
3)無原罪の聖母像
マリアが足で蛇を踏んでいる。
蛇の誘惑によって生じた罪を、マリアが踏んで乗り越える。