私たちは日本行きのフランスの大西洋横断客船「アラミス号」が寄港するまで、数日上海に滞在した。船はとても美しく、快適だった。イタリア語を話す他の宣教師たちは乗船していなかったが、そのことは逆に私たちにとっては本当に幸いだった。なぜなら、私たち二人の会員は未熟なフランス語に磨きをかけることができたからである。当時、フランス語は日本で活動しているほとんどすべての白人宣教師が話していて、そうした宣教師の大半がパリ外国宣教会(パリ・ミッション)に属していたのである。一人の有能なフランス人宣教師が私たちに語学の講義をしてくれて、数日後にはマルチェリーノ神父は正確なフランス語を話せるようになった。ロレンツォ神父もその講義のおかげで、日本に着いた時には官庁の役人や聖職者と会話が成立するまでになっていた。
日本まではあと数日の航海であった。そして一九三四年十二月九日、ついに私たちは神戸に上陸し、翌日、汽車で首都の東京へと向かった。イタリアを出発してから、ちょうど一カ月後に東京に着いたことになる。あえて欲を言わせてもらえれば、日本宣教の使徒、聖フランシスコ・ザビエルによって「聖」とされたこの日本の大地に接吻するため、ひざまずきたいところではあったが……。
中国から日本への旅は、言葉では言い表せない喜びであった。私たちは黄海、東シナ海と、左右に点在する無数の島々の間を航海した。そして何があっても「日の昇る国・日本」に辿りつけると確信していた。たとえ何かの災難や船に損傷が生じても、周りの島々からすぐに救援が駆けつけてくれて、大した困難もなく私たちを救助してくれるだろうと。
三十二歳のマルチェリーノ神父は、その当時から胃潰瘍に苦しんでいたが、アジア「彼の東洋」に今、確かに自分はいるのだという喜びのあまり、胃薬をしまい込んで飲むのを忘れていた。その後、彼はこの愛する東洋の地で実に四十年もの長い間、精力的な活動の日々を送ることになるのである。ベルテロ神父はそうした「ボス」の楽しそうな様子を見て満足していた。マルチェリーノ神父の喜びは、胃潰瘍の痛みをすっかり忘れてしまうほどに大きかったのである。
韓国と九州の間に広がる対馬海峡に近づいた時、私たちは望遠鏡で、昔のキリシタンの中心地・長崎を見た。そこにはザビエルが福音を伝えた信徒たちの子孫が今も生活しているのである。第二次世界大戦中、広島に次いで原子爆弾による恐ろしい被害を被ったのは、この長崎であった。船はさらに進み、私たちは福岡の景観に見とれた。この福岡は後日、聖パウロ修道会志願院の誕生の地となるのであり、十五年後に私は、それを設立することになる。関門海峡に入り、左手に日本では四番目に大きな島、「四国」と呼ばれる島が視界に入ってきた。三番目に大きい島は前述の九州で、二番目は北の北海道、そして一番目は中央に位置する本州である。神戸はこの本州における第一の商業港であり、大商業都市の大阪とはほど近い所にある。
私たちの最後の停泊地である神戸を見たマルチェリーノ神父は喜び躍り、「着いた!着いた! とうとう日本に着いた!」と叫び続けていた。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年