二、三日の航海の後、「コンテ・ヴェルディ号」は人口が二百五十万の大都会ボンベイ(現在のムンバイ)の港に着いた。私たちは褐色の肌をした人々が群れをなして、忙しく、そして目まぐるしく生活している大きな都市というものを、これまで見たことがなかった。
インドに足を踏み入れたことで、東洋における私たちの宜教の冒険がついに始まったのである。地理的にも遠く、すべての点において異なった国に多少とも長く滞在するつもりでやって来るヨーロッパ人たちは、当然のことながら、あらゆる面において現地の人との交流を深めることを通して、少しずつ彼らの伝統や文化、精神性、習慣に慣れ、言葉を学んでいく必要がある。しかし、たとえどれほど長くその国に滞在したとしても、すべてのことを理解できるわけはなく、人々の考え方、その国の国民特有のひそかな心情、表面的な態度の背後にある生活に深く根付いた神秘的な思想といったものを、正しく理解することは到底できないであろう。
こうした異国の中でも、インドはヨーロッパ人にとって距離的に一番近く、また行きやすい国であった。何世紀も前からヨーロッパ人はインドと自国を往復していたのだ。しかし中国や日本とは交流が少なく、特別な例外を除いてはごく最近、すなわち前世紀になってからの交流である。したがって私たちのように何の経験もない年若いパウロ会員が大きなショックを受けたことは、容易に想像ができるであろう。その国の言葉を習得している外国人は現地の人とすぐにつきあいができるので、彼らへの理解は容易になる。しかし、それにもかかわらず、ヨーロッパ人とあの遠い国の人たちの間には、「生活」という面においていつも眼前に立ちはだかるどうしても理解できない壁、「心理的な隔離の壁」といったものが確かに存在しているのだ。これは約二十年間、世界で最も進歩した近代国家の一つである日本人の中で生活した私が、今にして言える分析である。
インドは三百万平方キロメートルにおよぶ広大な半島であり、人口は七億五千万人。人口でこれを越えるのは中国だけであり、中国の国土はインドよりもさらに広い。しかし、一平方キロメートル当たりの人口密度は日本に遠く及ばない。インドは工業化を目指す発展途上国で、主な産業はいまだに農業である。牧畜の他に主要な資源としては、コメ、コーヒー、茶、綿、砂糖、石炭、金、銀、その他の金属類である。言語と宗教は実に多種多様である。主な宗教はヒンズー教で、プロテスタント、カトリック、正教会の信者は国民のわずか二・九パーセントである。キリスト教は、ラテン典礼、マラバリコ典礼、マランカリコ典礼の三つで、信者数は合計で百十一万七千人(一・七パーセント)である。
航海中に、マルチェリーノ神父は「コンテ・ヴェルディ号」のチャプレンになっていた。敏捷でさわやかな弁舌、熱心で創意工夫に富む彼は、毎日のミサのプログラムを作り、日曜日にはミサの始まる前に船尾から船首へとすべての通路をめぐって、乗客、従業員、航海士、乗組員を集会に招いて回った。主日、祝日の福音の説教はいつも、ほとんど彼が一人で行っていた。これは積極的で人々の共感を呼び覚ますマルチェリーノ神父生来の性格もあったが、この時からすでに彼は「宣教者」としてのカリスマを十分に生かし切っていたのである。
私たちはボンベイ(ムンバイ)に上陸し、港の波止場でグループに分かれ、中心部の大通りや広場へと入っていった。私たちのグループは当然マルチェリーノ神父が引率者であったが、教会でミサをささげるためのホスチアを探し出して手に入れる役目は私が引き受けた。
しばらく歩いてから、周りにさまざまな鐘楼が建っている広場の真ん中でみんなは足を止めた。鐘楼の一つがカトリック教会のものと思ったのだ。そしてそのとおり、私たちが見つけたのはカトリックの女子修道院で、そこには互いによく理解し合えるイタリア人のシスターたちが数名いた。まもなく必要なものがすぐに見つかった。マルチェリーノ神父はお礼を述べ、シスターたちに「どうか、私たちの使徒職がよく始められるよう祈ってください」とお願いした。
港からあまり遠く離れないよう注意して町の中を歩き回り、それから船に戻った。わずかなお金だけを持たされて、頼る所もなく創立者からこのような遠方に派遣された私たち(東洋への宣教は、聖パウロ修道会にとってまったく初めてのことだった)は、失望したり落胆したりしないよう努めた。神のみ摂理が私たちを必ず守ってくださると知ってはいたが、みんなまだ若く、何の経験も持たなかったので、見聞きするすべてに私たちは動揺していたのである。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年