巨船「コンテ・ヴェルディ号」は大勢の乗客を乗せて、トリエステからブリンディジに入港した。乗客たちの中には、インド、中国(当時の支那)、フィリピン、オーストラリアなど、さまざまな国へ向かう十数人のイタリア人宣教師と宣教女たちがいた。しかし、日本を目指す人は一人もいなかった。マルチェリーノ神父と私は、神にすべてをお任せするほかはなかった……。
船は航路の終着点である中国に着いてから、また同じ航路を逆戻りしてイタリアへ戻っていくのである。マルチェリーノ神父と私は上海で数日を過ごした後、日本に向けて出港するフランス船に乗ることになっていた。アジア大陸から「日出ずる国」日本までの長い旅の後半については、いつか適当な機会にもっと詳しく扱うことにしよう。
話を、出航後にさかのぼって再開する。約二日間の行程で「コンテ・ヴェルディ号」はエジプトに着いた。私たちが目にした最初の外国の海岸、私たちが肉眼や望遠鏡で見ることができたのはギリシャの島々、すなわちケファル、ケファロニア、クレタなどであった。それから船は南に向きを変え、見え隠れするリゼアの海岸沿いに進み、ついにエジプトの海岸へと到着した。左手に遠くではあったが、かろうじてパレスチナを見つけることができた。私たちの心には神の御子(すべての人の救いのために彼の地に降りてこられた)に対する感謝の念が湧き起こった。
エジプトのアレキサンドリアには上陸しなかったが、ナイルのデルタに沿って航海し、ポート・サイドの湾へと進んだ。船はそこで同名の市から約二キロの所で初めて錨を下ろした。陸地はよく見えたが、そこへ行くためには小舟かオールを使った手漕ぎボートで行くしかなかった。多くの宣教師がすぐに下船して、町に行くことにした。しかし私以外の三人の聖パウロ修道会宣教師は船を離れる勇気がなかった。そこで私一人だけが、他の修道会の宣教師たちと一緒に小舟に乗り、町に向かった。
私のこの決断は、「異国の地を初めて踏む」という押さえ難い願望によるものだった。こうして私は五十年後の今、懸命に当時のことを思い出そうとしている冒険の記念すべき第一歩を踏み出したのである。
小舟が出る前に、マルチェリーノ神父は私に幾らかの金を渡し、四着の聖職者用の白服を買ってくるように命じた。私たちの着ているシャツが黒なので暑苦しく、周りの人々に不快感を与えていたからである。十五分ほどで陸に着くと、私はひとっ跳びでポート・サイドの市街に入った。一緒に旅行している他の宣教師たちは、たちまち群衆の中に姿を消してしまった。コート・サイドは彼らにとって初めてではなく、この土地に慣れているように思われた。私はたった一人で歩道に取り残され、多少途方に暮れたものの不安はなかった。街の雑踏ぶりを眺め、人々のわめき声を聞き、あちらこちらと私の注意を引くものを見つめていた。こうした見慣れない場所や風習は、異なる文化圏からやって来た私に強い印象を与えたのである。
私は岸壁に沿って歩き始め、かなり高くしなやかな棕櫚の並木道へと上がった。果てしなく続くかと思われる露店がずらりと立ち並び、雑多な品物を売っていた。大きなパラソルの下には、たくさんの品物が無造作に広げられていた。私はすぐに衣服を大量に売っている店を発見し、探している品物を訳なく見つけ出すことができた。目当ての白い服は、今まで見たこともない風変わりな衣服に混じっていたが、目的の服を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。私は服の値段を大声で叫んでいる店員に近づいた。もちろん彼が言っていることは、ひと言も分からなかったが。私は彼に、その服が一着幾らかをフランス語で尋ねた。だが彼は私の言ったことが分からず、ただ私を頭のてっぺんからつま先までジロジロと眺めるだけであった。
そこで、私は一着の上着とズボンを手に取って、思わずピエモンテの方言(理解できないことをとがめる言葉)を口にした。すると突然、店員の顔がパッと輝いた。
「神父さん、イタリア人ですか? なぜすぐにそう言ってくれなかったんです?」
そこから会話はスムーズに進行した。私は彼に、彼自身とその生活ぶりについて尋ねてみた。彼は自分もイタリア人で、ピエモンテはよく知っていること。ずいぶん前にエジプトに移住し、今は家族を養うためにこの仕事をしていることなどを話してくれた。
そして「歳をとってからでいいから、両親のいる祖国に帰りたい」とつけ加えた。彼は、私にこれからどこへ行くのかと尋ねた。私は彼に旅の目的を伝え、そして四着の聖職者用の服の話に戻った。
「さあ神父さん、どれでも好きなものを選んでくださいよ」。
お金を払う時になって、この寛大な店員はなんと、四着分の服を一着分の値段で売ってくれたのである。そしてとても丁寧に包装してくれ、心からの別れの挨拶をしてくれた。
私はそれから、あちこち歩き回り、同じ客船に乗っていた別の修道会の宣教師と出会い、出港準備の汽笛が鳴るまでの間、彼と一緒に散歩した。そして私たちは小舟に急ぎ、岸壁を離れて客船に乗船した。
「コンテ・ヴェルディ号」の甲板から兄弟会員たちが心配そうに船に向かってくる小舟を見つめていたが、私の姿を見つけて安心した。船室に戻って買ってきた白服を着てみて、みんな満足した。寸法がぴったりだったからである。マルチェリーノ神父が白服を着てみたところ、とてもよく似合っていたので、彼は着たままでいた。
当然のこと、友人たちは、上陸して見聞きしてきたことを私にいろいろと尋ねた。私はその全部を、まるで目に見えるようにこと細かに話したので、他の三人も次の寄港地では必ず上陸しようと決めていた。今言ったように、マルチェリーノ神父は最初に白の聖職者服に着替えたが、他の三人はしばらくの間ためらっていたが、やがて私たちも心を決めた。こうして私たちは船の上で真新しい「制服」を着て歩き始めたのである。
ポート・サイド港を出て、スエズ運河を通り、インド洋に進むため紅海に入った。紅海を通過する間、私たちは聖務日課(教会の祈り~時課)を声を出さずに唱えながら、エジプト人から追撃されたイスラエルの子らが海の中を歩んだ不思議な出来事(「出エジプト記」)を霊的に追体験した。モーセの奇跡的な行動を黙想し、不思議なわざを通して民と共に歩まれた神の限りない力について、思いをめぐらした。
天と地の間に果てしなく広がるアラビア海(インド洋の一部)のただ中で、私たちは初めて大洋の計り知れない大きさに深い感動を覚えた。私たちは自分たちがこの偉大な冒険において互いにいっそう深く一致し、連帯していることを感じ、時の経過と共にすべての不安が深い淵の中に消え去っていくように思われた。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年