毎日、エンリチ神父が看護してくれた。マッサージに注射、足はひざから下がしっかり包帯で固められていた。療養している間、私はベッドに横になって祈ったり、読書をしたり、また「協力者」のための新しい使徒職の計画を立てたりしていた。
友人たちが昼食後のレクリェーションに興じているとき、私はベッドから降りて、片足飛びで窓辺に行き、中庭の「パッラ・アッヴェレナタ」を見下ろしていた。ある日、私はいつものようにみんなのレクリェーションを見てから、歌を口ずさみながら室内を行ったり来たりしていた。突然、創立者の足音が廊下に聞こえた。足音は私の部屋に近づいて来る。私は大急ぎでベッドに潜り込んだ。
静かにドアをノックする音がした。
「入ってもいいかね?」。
「どうぞ」と私は答えた。
「足の具合はどう? ベルテロ神父さん」。
「はい、順調です。もう二、三日もしたら完全に治ると思います」。
「そう、そう……。回復するまでは仕事はできないから……。ところであなた、日本へのパスポートを準備しませんか? キリストに賛美」。
それだけ言うと、創立者は部屋を出ていってしまった。
私はあっけにとられていた。「爆弾」が炸裂したのだ。
彼と過ごしたこの十年で私が自問したのは、これが初めてだった。「神学の先生は、きっと間違えたのだ。私に宣教地に行けだなんて。しかもそんなに遠くの地まで……。いや、恐れ入った! これについては考えないでいたほうがよい」。
しかし翌日も同じ時間に、「神学の先生」はまた私の部屋に上がって来て、すぐ任務について話し始めた。
「パスポートを準備しなさい。そして、マルチェリーノ神父さんと一緒に出発しなさい。彼はローマであなたを待っています」。それだけ言うと、創立者は部屋を出ていった。
私は「神学の先生」が冗談でなく真面目だということに気づき始めたが、まだ完全に確信したわけではなかった。その日は一日中、誰とも話そうとせず、気がかりで神経が高ぶっていた。
「イエス、マリア」、私は独り言を言った。「これは本当なのでしょうか。『神学の先生』は、ただ私を試して反応を見ようとしているだけなのでは? 明日になったらフランスかスペインに私を派遣するのでは……」。真実を知るためにこれほど心配し、不安な時を過ごしたことはかつてなかった。
「しかし」と、さらに私は考え続けた。「こんな重大なことで『神学の先生』が冗談を言ったことはない。もし彼がもうここに来なかったら、どうやってこの不安な状態から抜け出せるのだろう」。
そこで私は美しい顔や醜い顔、褐色の肌や黒い肌の人々、未知の国々や宣教師たちの住む小屋、緑の谷や荒れた山々などについて想像するのをやめた。
一九三四年の十月も末のことであった。「神学の先生」が三度目に私のいる五階に上って来た。そして、たくさんの書類を手にして私の部屋に入って来た。
「さあ、ここに(彼は、ほほ笑みながら言った)あなたの出生証明書、国籍証明書などがあります。これを全部、ローマのマルチェリーノ神父に送りましょう。彼があなたのパスポートを準備してくれます。よく祈り、よく準備しなさい。あなたは間もなくローマに行き、マルチェリーノ神父がすべてを説明してくれるでしょう。トリエステのロイドの客船がシャンハイ上海に行きます。東京に行くあなたたちと、中国に行くエマヌエレ・ファッシーノ神父とピオ・ベルティーノ神父が一緒に出発します」。創立者は私の安心した幸せそうな顔を見て、満足して部屋を出ていった。
「爆弾」は祝砲だっただけでなく、私の心に名状し難い喜びを引き起こした。幸福感に包まれて、私は内廊下に出て階段を上り降りした。神学生たちや友人の若い司祭たちの教室に行っては、「おーい、『神学の先生』が私を日本に派遣するんだって。世界の首都へね!」と言って回った。私はすっかりのぼせ上がり、みんなを笑わせてしまった。誰も私の言うことを信じようとせず、いつもの冗談だと思っていた。
「実際のところ」と私は、教室を出ながら考えた。「みんな私が狂ったと思っている。しかし『神学の先生』は、はっきりと言われたんだ、<時期を待とう>」って。
部屋に戻った私は、ロザリオを手に取り、聖母に感謝しながら祈り始めた。祈りの言葉には注意していたが、頭の中では絶えず他の考えが駆けめぐっていた。
さらに三日たって看護係エンリチ神父の許可が下り、私は部屋を出て日本への渡航の準備を始めた。すばらしいバイクを買ったその店に、千リラを差し引いてバイクを売らなければならなかったのだけは残念だったが……。
それから、宣教旅行のための寄付集めを少しずつ始めた。確かに渡航切符は創立者が購入してくれたが、長い旅行には幾らかのお金はやはり必要であった。寛大に快く援助してくれると思われる、かなりの数の友人や恩人に「特別の事情」ということで私は献金をお願いした。数日のうちに、三万リラという高額なお金が集まった。私はそのお金をポケットに納めて、「これだけのお金があれば、まあ順調にいくだろう、問題はないだろう」と思った。しかし、ローマで「神学の先生」と最後の挨拶をしたそのとき、「こと」は起こったのだ……。それは後ほど述べることにしよう。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年