私たちは、霊魂のあたいを理解するために、私たちのたましいの中に、聖櫃から、より明らかな光りをもたらしてくださよう、ホスチアなるイエスを呼び求めましょう。今日、教皇が示してくださる使徒職の道を、私たちがよりよく見きわめることができるように、使徒の女王マリアに呼び求めましょう。
私たちは使徒聖ペトロとパウロが、ますます、聖なる熱意、すなわち、超自然的で賢明な、英知あるしかも強固な熱意を私たちに与えてくださるよう彼らに呼び求めましょう。
熱意
第一の特徴は、人間の高貴な本性です。神は私たちをご自分の似姿におつくりになりました。神は伝達的な善であるゆえに、彼の言うべからざる完全性の何らかを人間の心の中に注がれました。人間には、ちょうど、植物が成長し、花を咲かせ、葉をしげらせ、果実を結ぶように、自分の考え、自分の心情、信仰、生命自体を伝達する必要が、心から生まれるような自然的な動きがあります。この広がりにおいて、本能は、超自然化され、使徒的となります。
私たちの存在の奥には、父性への傾きがあります。人間は、他の存在の中で自分自身を生き続けようとするものです。叙階の秘跡は、神的な父性、すなわち、霊魂の父となることに向かわせながら、その傾向を私たちのうちで、無限に高めてくれました。キリスト者は、そのことを知っており、私たちを「神父」と呼びます。───良い司祭は、多くの人々の父、霊魂の無数の家族の父であることをのぞむにちがいありません。そのことは、「だれも自分のために司祭となるのではない」という格言の通りであります。
人間の心の中には、人間の悲惨、すなわち、傷をいやし、涙を拭い、無知な人々を教育し、永遠の生命を与え、多くの人々が自ら選んだ、地獄への道を遠ざけようとする、自然の同情心があります。イエスの心は非常に敏感でした。「この群衆をあわれむ」と。
私たち各人にとって、地上と社会において遂行すべき使命があります。私たちはよりよい方を選びました。この働きは、霊魂たちに、私たちの意志により、身分上の義務となりました。子供の教育を怠る父親(たとえ個人的には敬虔であったとしても)は、救いの道を歩いていないように、たとえ、神の掟を破らないにしても、また、修道者が誓願を破らないにしても、熱意を持たない司祭は、救いの道を歩いてはいないのです。
「私があなたがたを選んだのは、あなたが行って、実を結び、その実がとどまるためである」
私たちは、「司祭はもう一人のキリストである」から、キリストにおいて生きなければならないと、しばしばくり返します。ところで、キリストに全く似た者となるために、どのような道をとらなければならないのでしょう。神のおん子の道は、「われわれ人間のため、われらの救いのために、天より降り、聖霊により童貞マリアよりおん体を受け、人となりたもうた。われらのために十字架につけられ……苦しみを受け、葬られた」ということであります。私たちの道は、「司祭なるキリストにおいて生きる」ということであります。私たちは大司祭であり使徒であるイエス・キリストを持っています。
『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。