“主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。”(イザヤ61・1)
Ⅰ イエス・キリストは預言者たちによって、師であると前もって告げられていました。「主は、あなたがたの民から一人の預言者を起こすだろう……。彼に聞きなさい」(申命18・15)
イザヤは前もって「多くの民は行って、言うだろう。『来てください……そして私たちに教えてください』と」言いました。キリストは生来、師です。実際、彼は真理そのものです。この真理は伝達できるものです。神のおん子は知恵ある人間をおつくりになりました。「すべての人間を照らせ」(創世1・9)。
みことばは、教えるために人間となられました。聖パウロは神が旧約聖書において、何度も預言者たちをとおして、おおくの方法で語られ、最後にはおん子を通して語られた、とのべています。
彼は完全な師です。ご自分で誤ることも、誤らせることもないおかたです。ことばで教えますが、まず模範で教え、次に恩寵で伝達します。それは私たちが彼の教えを信じ、彼の模範に従うためです。
Ⅱ 次のようなことが示されています。すなわち、その教えは常に攻撃されました。信じられるべき権利を持ち、従われるべき権利を持った者として教えをたれました。
「イエスは、律法学者やファリザイ派の人々のようにではなく、権威をもってやしえられた」(マタイ 7・29)。
ご自分の教えを聖なるしるしと秘跡をもって干渉なさいました。イエスは「あなたがたの師は一つ、キリストだけである」(マタイ 23・8)
「あなたがたは私を先生、または主と呼んでいるがよいことである。実際、その通りだから」(ヨハネ 13・13)人々は、キリストがそうであると認めました。ニコデモは彼に言いました。
「先生、私たちはあなたが教えるためにこの世に神からつかわされたおかたであると知っています。(ヨハネ 3,2 )
ファリザイ派の人々はイエスに、
「先生、私たちはあなたが真実な人であると知っています……」(マタイ 22,16.マルコ12,14)と言っていました。
「あなたがたの先生は二ドラクマを支払わないのですか」(マタイ 17,23 )
イエスの教えおん父の教えと同じものでした。
「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方の教えである」(ヨハネ7,16 )すなわち、神の教えなのです。そしてイエスはそのことを正確に、かつ真実をもって宣言しました。彼は唯一の先生であり、その弟子たちは履行者です。イエス・キリストに聞くことと、その弟子たちに聞くことは同じです。
「あなたがたに聞く人は、私に聞く人である」(ルカ 10,16)
Ⅲ ご変容の日、イエス・キリストはおん父から荘厳な宣言を受けられました。イエスは、祈るために山にのぼりました。するとそこで、そのお姿はかわりました。そのお顔は太陽のように輝いたのです。そこで律法を代表するモーゼと、預言者を代表するエリヤの証明がイエスについて行なわれました。
新約、すなわち新しい律法(契約)、新しい約束、新しい信仰がはじまったのです。ペトロは信仰を、ヤコボはわざを、ヨハネは愛を代表していたのです。そこにおん父のみ声のこだまがひびわたります。
「これは私の愛する子である。彼のことで喜ぶ。彼に聞け!」と。
イエス・キリストは二つの証の間にお立ちになっています。すなわち、旧約を完成し、新時代を開いたのです。
・反省───私はイエス・キリストが聖師であることを堅く信じているだろうか。彼のことばを黙想し、その模範に従っているだろうか。
・決心───愛をもってイエス・キリストの生涯を読もう
『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。