一九六三年(昭和三八年)三月、アルベリオーネ神父が最後に日本に来た当時の管区長バガニーニ神父はアルベリオーネ神父を東京から大阪、福岡を経て、東京に帰り、それから韓国へ案内する計画を立てていた。大阪では聖パウロ女子修道会の修道院に泊まったが、その時、シスターたちの新しい修道院の敷地として候補に上がった地面図をいくつか神父たちに見せた。
結局アルベリオーネ神父の勧めに従って現在の修道院の建っている園田の土地を買った。また神戸の創設にあたっても、アルベリオーネ神父から神戸の目抜き通りで「ここがよい。このあたりの土地を見つけなさい」と勧められて現在の土地を買い、書店を開いた。
それから神父たちは福岡の修道院を訪問し、福岡から東京へ帰り、一時間後に韓国行きの飛行機に乗り換えるつもりでいた。その日に東京は雪が降っていた。二人の神父を乗せて福岡空港を飛び建った飛行機はある空港に着いた。パガニーニ神父はてっきり羽田空港に着いたものと思い、飛行機を降りると、すぐ国際線の発着所をさがして急いだ。
しかし行けども行けどもそれらしいものはない。変だなと思って飛行場で郵便物を運ぶ三輪車の運転手に聞いた。「国際線はどこですか?」「へえ、どこへ行くのですか?」「羽田から韓国へ行くつもりなんですが」「ここは大阪ですよ……」
例の飛行機は雪が降っている羽田空港を避けて大阪に着陸したのであった。そんなことは乗客には何も知らされていなかったのである。
アルベリオーネ神父はかばんを持ち歩き、だいぶ疲れたようであった。パガニーニ神父が、「そのかばんを私が持ちましょう」と言ってもアルベリオーネ神父は「自分で持ちます」と言ってきかなかった。パガニーニ神父は大阪空港から羽田空港の係員に電話をかけて「韓国行きのキップを持っていますが、出発時間に間に合いそうもありませんがどうしましょう」と問い合わせた。すると「大丈夫です。韓国行きの飛行機も遅れています」という返事であった。
アルベリオーネ神父は韓国の聖パウロ会に着くと、少し用事をすませてから客室に昼休みに行った。その前に午後二時すぎにお客がくるから、二時になったら起こしてくれと言っていた。パガニーニ神父は二時に起こしに行った。ドアをノックしても返事がない。
それでドアを開けてみるとアルベリオーネ神父はベッドの上に背広を着たまま寝ていた。非常に疲れた様子であった。飛行機が飛んでいる時は、時々席を立って聖務日祷やロザリオをとなえていた。パガニーニ神父は、アルベリオーネ神父が席を立つごとに「何か用事ですか?」と聞いた。「いや、そうではない。私は起きて歩かないと、血の循環が悪くて神経が痛む。少し歩かせて下さい」と答えるのであった。
なお、この年の八月二十二日に、アルベリオーネ神父は、聖パウロ女子修道会がアルバノに設立した「使徒の女王」病院で教皇パウロ六世を迎えている。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。