戦後、アルベリオーネ神父は世界に散在する聖パウロ会の視察を始め、会員たちを激励した。一九四九年(昭和二四年)五月に、アルベリオーネ神父が空路羽田に着いた。
六五歳になっていた創立者は白髪の温顔をほころばせ、静かに神父たちの労をねぎらうとともに、邦人会員にいっそう努力するように勧めた。それは、ちょうど文化放送の定礎式の直後であった。
その時、アルベリオーネ神父は日刊新聞の発行を提案した。その中のみことばや聖パウロの考えを盛り込んで、カトリックの精神を広めたらどうかというのである。
しかし、文化放送に力を入れている時だったので、新聞の件は時期を待つということになった。また四谷見附の一角の土地を中央出版社用に買うよう勧められて、その土地買収に努力し、買収不可能と見えたその土地をやっと手に入れた。それが現在、サンパウロビルの建物のある所である。
アルベリオーネ神父は、各国に根づいたパウロ家を訪問するにあたっての目的を、こう述べている。
「互いに愛し合い、再開を望んでいる兄弟たちを訪問するにあたって、かれらがなした仕事について、またその成果について情報を交わし、皆の上に神の恵みが増すように祈り、互いによりよく進歩するために、その方法を習い、出会う困難に際しては慰め合い、愛情を交換し、聖なる模範を示し、修道生活とよい精神を保つための有益な会話を交わし、使徒職、勉学、召命事業、管理などについての有益な経験を語り合うなどのことがなされる。」
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。