第二次大戦が終わった時、アルベリオーネ神父は六一才歳になっていた。相貎は若々しく、長時間の祈りのせいか何かに取りつかれたようであり、顔面には苦労のしわが刻みこまれ、頭髪は白くなっていた。
しかし、今までの偉大な体験を、自由に精いっぱい、生かす機会がおどずれたのである。どんな苦しい情況の中でも道を切り開いて行く勇気と、どんな気にさわることを言われても、されてもびくともしない克己と、始めたことをあくまでやり抜く根性が、その小柄な老体に満ち溢れていたのである。それで出会う人たちに、敬老の年以上に、その人の好き嫌いや利害関係を越えて、かんたんに忘れることのできない魅力と説得力とを与えていたのである。
国会議員のオスワルド・カヤナッソ(Osvaldo Cayanasso)氏はごく最近、老年のアルベリオーネ神父の一面を、こう述べている。
「今日、全ヨーロッパで最も有名なお菓子店の創立者ジョワンニ・フェレロ(Giovanni Ferrero)は、莫大な金額をアルベリオーネ神父に与えたが、その金は事業拡大のために、あとで返してもらう予定であった。それゆえ、一九四八年(昭和二三年)代議士選挙のあと、フェレロ氏の事業株主、カヤナッソ氏は国会に参加するためにローマへ行った。その際、フェレロ氏に頼まれて、不承不承アルベリオーネ神父のもとに借金を取り立てに来た。神父は、その代議士に答えた。「フェレロさんならよく知っていますよ。私を大変助けてくださいましたね。感謝していますよ。もっと助けてくださって欲しいと思っています。すぐにでも、あの方の所に話しに行きましょう。」
「アルベリオーネ神父さん、あのう、おわかりでしょうか。フェレロさんは、あなたにお貸ししたお金が必要なので、すぐにでも返してくださいと願っているのですよ。」
「はいはい、わかりました。でも……すぐにとはね。それではアルバに行かねばなるまい。フェレロさんの所へ行って話してみましょう。出かけて行って話してみましょう。」
フェレロ氏はカヤナッソ氏から事の顛末を聞いてカーッとなり、「私はあの人を知っていましたよ。君のやり方がまずかったね」とくり返していた。
アルベリオーネ神父は、計画していた通り、しばらくしてからアルバへ行った。そしてフェレロ氏の所へも話をしに行った。フェレロ氏の家は聖パウロ会から数メートルの所にあった。フェレロ氏は、カヤナッソ氏から何も聞かなかったふりをして神父にたずねた。
「アルベリオーネ神父さん、カヤナッソ氏は、あなたに会いに来ましたか?」
「ええ、先日、お見えになりましたよ。」
「それからどうなりました? あなたの借金は返したのですね?」
「いいえ、あの人には、ほかのものをあげましたよ。」
フェレロ氏は、個人的に強い魅力を感じたので、時々友人たちに、こう言っていた。
「かりに、私がアルベリオーネ神父のような旅の道連れをえたとしたら、ヨーロッパを制服するかもしれない。」そして借金の返済の延期を認めた。
多くのパウロ会員もフェレロ氏と同じくアルベリオーネ神父の魅力に引かれて、その命令一下、慣れた仕事と手を切って、今まで考えたこともないほかの仕事に手をかけた。たとえば教授職から修道院のややこしい管理職へ移動し、若くもないのにことばのわからない国へ行ったり、ありがたくもない仕事を余計に背負ったりしたのである。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。