アルベリオーネ神父は、司牧神学の権威であり、アルバ神学校でも長い間、神学生にこれを講義していた。神父がほかの教授と違う点は書斎で研究したことを発表するということでなく、神父自身が教会や修道院に出かけて行って人びとと面接し、その苦悩や喜びや願望に共にあずかり、そこにある問題をどう解決し、処理してゆくかという、どろどろした現実をふまえての講義であった。
だからアルベリオーネ神父は、教理と事例がいつも結び合わさり、現実から神学問題を考え、日常生活に神学を生かしていた。そして教科書としては、自分の体験を取り入れた自著、司牧神学メモ(Appunti del Teologia Pastorale)を使っていた。司牧神学を重視した点では教皇ヨハネ二十三世と全く一致し、第二バチカン公会議を先取りしたともいえる。
アルベリオーネ神父の活躍していた二十世紀初頭のアルバ教区は、教区長ヨゼフ・フランシスコ・レ司教の指導よろしく、非常に進歩的で、ピオ十世の回勅パッセンディ(Pascendi=司牧回勅)を、いち早く実践し、社会の経済向上にも力を尽くした。すなわち教会の神父たちが、農業開発組合や村の銀行づくりに協力したのである。教会の助任神父時代の経験から、主任司祭や司牧の面で手助けの必要なことをよく知っていた。たとえば秘跡を受けたい人びとをよく準備し、教理を教え、祭式の準備をよくすることなど誰かの援助を痛感していた。それで彼は直接教会の主任司祭に協力する修道女会をつくることにした。
一九三八年(昭和一三年)十月七日、聖パウロ女子修道会のシスター・マリア・ニヴェス・ネグリと協力して、ローマ近郊アルバノのラツィアレ(Laziale)教区のゼンツァノに、パストレッレ(牧者)という女子修道会を創立した。会の目的は、教会の主任司祭を助けて信者の典礼教育にたずさわり、祭式の手伝いをし、少年少女に宗教教育を施し、幼稚園を経営することである。現在の典礼運動や信徒使徒職に先がけて、ミサの時間に福音書を朗読し、讃美歌を歌い、子どもたちにカトリック要理を教え病人を見舞い、教会から遠ざかる信者を教会に導いた。
また、このシスターたちは生活に困っている人びとの相談相手にもなり、法律や組合のことをよく研究し、社会福祉の恩恵にあずかるようにしてあげた。
司祭の少ない所では、とくに司祭一人で教会を二つも三つも受け持ち、日に何回か巡会して、告解やミサを行う所では、このシスターたちが、ほかの司牧を全部やっている。もちろん、シスターたちは、カトリックの雑誌、パンフレット、週刊誌、カトリック新聞を活用して布教する。彼女らの霊性は、善い牧者であるイエスへの信心と至聖マリア、聖ペトロへの崇拝から汲み取られている。
その上、神学や社会学の勉強をし、ある者は保母の免除を取り、ある者は小学校教諭の免許を取り、ある者は社会保護者の免許を取り、ある学校で人事顧問になったり、ある学校で社会保護の講座を受け持ったりしている。
要するにアルベリオーネ神父は、バチカン公会議が始まる前に、助祭職や信徒使徒職の実践を先取りし、国家がようやく福祉政策への重い腰を揚げるよりずっと前に、福祉政策の不備を指摘し、身をもって、これをなおすことに取り組んだのである。今ではイタリアをはじめ、ブラジル、オーストラリアで、この修道女会は活躍している。
アルベリオーネ神父は、その回想録に、この修道女会の活躍について、次のように述べている。
「私はパストレッレ(牧者会のシスターたちの呼称)が、小さな幼稚園にいるのを見た。教会で教えたり、歌の練習をさせているのを見た。将来の司祭職のために小神学生の世話をしているのを見た。聖体となるパンを焼いたり、教会の物を洗たくしたり修理したりしているのを見た。女性の職場で指導しているのを見た。
カトリック・アクションの青年たちに講話しているのを見たし、病人に秘跡を受ける準備をさせたりしているのを見た。教会で子どもの世話をしているのを見た。教会や祭壇を掃除したり飾ったりしているのを見た。結婚を準備させているのや、復活祭のおきてに無関心な人々を説得し、キリスト教的社会運動に立ち上がらせているのや、小教区のミサや説教にあずからせているのを見た。
貧しい人びとの救済のために食べ物や衣服を配ったりしているのを見た。放課後にささやかな学芸会を準備しているのを見た。子どもたちの初聖体や堅信にそなえて教理を教えているのを見た。墓地の清掃や飾りつけをしているのを見た。毎日、自分たちの聖化のため、小教区のため、司牧者のため、一時間の聖体礼拝をしている彼女たちを見た。
……彼女らは、直接に人びとの魂と家庭の中に入って使徒職をする。各状況に応じて、小教区の仕事をし、その活動を助けながら、パウロ会が到達したいと望むところを代行するのである。
臨終の床にある子供の側に、光りとなぐさめの天使としてはせより、祈りと働き、また、有益なことばによって、人びとと主任司祭の橋わたしとも、母性的仲介者ともなるのである。」
さてアルベリオーネ神父は、一方ではパウロ家の霊性と活動とをいっそう高めると同時に、他方ではパウロ家を法律的にも教皇庁認可の修道会に昇格させるための手続きをしんぼう強く取っていた。
次にパウロ会が聖座法による修道会へ昇格するまでのいきさつを述べてみよう。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。